original image: © Rivanro - Fotolia.com
もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて
This is Not the End of the Open Web
2016.08.22
Updated by yomoyomo on August 22, 2016, 10:31 am JST
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This is Not the End of the Open Web
2016.08.22
Updated by yomoyomo on August 22, 2016, 10:31 am JST
すっかり旧聞に属しますが、Internet Archive が主催し、これからのウェブのあり方を議論するイベント Decentralized Web Summit が6月に開かれました。
このサミットには "Locking the Web Open" というサブタイトルが付いていますが、逆に言えば、主催者には現在のウェブはオープンではないという認識があるわけです。それにいたる流れを少し辿りたいと思います。
そもそも Open Web(オープンウェブ、開かれたウェブ)という言葉が特に言及されるようになったのは、2010年だったと記憶します。その背景の一つには Facebook など SNS によるユーザの囲い込み、もう一つには2010年8月に WIRED 誌において当時の編集長クリス・アンダーソンが「ウェブは死んだ」(日本語訳)とぶちあげた、モバイルシフトによるオープンなウェブからクローズドなアプリの世界への移行のトレンドがあります。
WIRED の特集を受けてでしょう、2010年10月にはオライリーが Open Web Foo Camp を開催してオープンウェブについて議論していますが、翌年には Facebook の Open Graph 構想を受けて、無料サービスばかり使っているユーザはウェブの底辺層になるという、「お金を払ってないのなら、あなたは顧客ではなく、あなたの方が売り物の商品なのだ」という強硬な主張も話題になりました(公平のため、この手の「お前のほうが商品だ」という意見に対する Facebook 社員の反論もリンクしておきます)。
2012年末には、起業家、ブロガーとして著名なアニール・ダッシュが、「我々が失ったウェブ」という文章で、ソーシャルネットワークの隆盛と遍在するモバイルアプリにより、開かれたウェブが本来有していた美点が(Web 2.0 という言葉が体現していた利点の一部ともども)失われ、利用者の自由が損なわれたことを指摘しています。その後ダッシュは、その失われたウェブの再構築について提案していますが、ソーシャルネットワークのプラットフォーム化とモバイルシフトの流れは止まりませんでした。
ワタシも本連載において、昨年「思想としてのインターネットとネット原住民のたそがれ」と「20年後:インターネットの自由という夢の死」という文章を書いていますが、前者はインターネットのアーキテクチャは、その特質を覆いつくすほどすっかり「舗装」されてしまったのではないか、後者は20年前に我々を惹きつけたインターネットの自由は夢でしかなかったのか、という危機意識が基調になっています。思えば、今年はジョン・ペリー・バーロウがサイバースペース独立宣言を発表して20年になります。バーロウがその宣言をぶちあげたスイスのダボスにおいて、その20年後にダナ・ボイドが、現在の AI 周りのハイプまで踏まえて書く「インターネットはもはやサイバースペースではない(It’s not Cyberspace anymore)」という文章の苦々しさも、それらの文章と通じるものがあります。
気づいた方もいると思いますが、元々はウェブ(World Wide Web)の話をしていたのに、インターネット全般について論じた文章もワタシは引き合いに出しています。議論の横滑りだろうと言われるかもしれませんが、もはやウェブはインターネットになったという見方もあります。ウェブは既に、単に文書をリンクするハイパーテキストシステムにとどまらなくなっているのです。また、過去のウェブと現在のウェブの差分にインターネットユーザの欲望の居所を求めることもできるわけで、それはネットワーク中立性の議論にも関わってきます。
2008年にブログに書いた内容を理由に懲役20年を言い渡され、その後2014年に恩赦を与えられてシャバに出てきたイランの人気ブロガーが書いた「僕らが守るべきウェブ」も、2010年代のウェブの変質にいきなり対峙させられた強い違和感を表明するものです。つまり、多様性に富み、自由だったはずのウェブは、ソーシャルネットワークの統一的なデザインが支配的になり、すっかりテレビのような中央集権的なものになってしまったという視座です。
今年に入り、オープンソースのコンテンツ管理システムである Drupal の原作者ドリース・バイテルトが「我々は開かれたウェブを守れるか?(Can we save the open web?)」という文章を書いています。話は Drupal の開発を始めた15年前の回想から始まりますが、当時インターネットにアクセスしていたのは世界の人口の7パーセントに過ぎず、ウェブサイトは2000万個ぐらいだったそうです。Google は上場しておらず、Twitter や Facebook は起業すらしていなかったその頃、ウェブは皆のものである自由な空間で、ユーザが見るものを支配する企業は存在しなかったとバイテルトは振り返ります。
しかし、この10年でインターネットは劇的に変わってしまい、今では一握りの巨大プラットフォーム企業がウェブを中央集権的でクローズドなものにしたとバイテルトは書きます。そのプラットフォーム企業とは具体的には Google と Facebook ですが、もはや多くの人たちにとって、この二つはインターネットの「一部」ではなく、インターネット「そのもの」なのです。
オープンウェブが元々持っていた一貫性と自由をそのプラットフォーム企業が損ねることをバイテルトは恐れるわけですが、具体的にはクローズドなウェブが使いやすさと引き換えに、ユーザ体験を支配することを指しています。バイテルトは中国で人気のメッセージングアプリ WeChat が Uber へのアクセスを遮断した例や、Facebook がインドで提供しようとした無料インターネットサービスを挙げます。そのサービスは無料で提供されるかわりに、ユーザは一握りの予め登録されたウェブサイトにしかアクセスできません(Facebook 自身がそれに含まれるのは言うまでもありません)。
結局このサービスは、インド当局によりサービス提供が禁じられましたが、ネット中立性に賛同していたはずのインターネット企業がプラットフォームを握ると、それに反するサービスを押し進めようとするというネット中立性をめぐる倒錯した状況があるわけです(なお、Facebook はインドでのインターネットサービスを諦めておらず、Express Wifi という無線サービスで再チャレンジしています)。
次にバイテルトが問題にするのが、プラットフォーム企業が駆使するアルゴリズムの力です。バイテルトは、Google の検索結果の表示が、無党派層の投票を20パーセント以上影響を与えうるという調査結果を引き合いにしていますが、Facebook の「トレンド」から保守派メディアが排除されているのではという疑いが最近問題になった件も容易に連想されます。
ワタシなど、2013年に刊行された、現在の AI ブームを予見するような『アルゴリズムが世界を支配する』という本を思い出します。Facebook の「トレンド」の件は、中立なアルゴリズムに選別を任せているといいながら、実は人為的な操作が入っているのが疑われたのですが、アルゴリズム自体も偏見を持つ可能性があるのを、「世界を支配する」と言われるほど我々の生活に強力な力を及ぼしていることとあわせ、忘れてはいけません。
バイテルトは、IoT 時代にはアルゴリズムが人間の生命を直接的に脅かす力を持ちうるのを指摘し、食料品や医薬品について検査や取り締まりを行う食品医薬品局(FDA)にあたる監視組織をアルゴリズムについても設けるべきと提言しています。それがプラットフォーム企業の個人データ支配を緩和し、ユーザが自身の情報に関するコントロールを取り戻しながら、飽くまで開かれたウェブを通して利用者の利便性を確保する道とバイテルトは考えているようですが、このあたりドク・サールズの『インテンション・エコノミー 顧客が支配する経済』との親和性がありそうです。
バイテルトは、我々が今日築いたウェブが次世代の基盤になるのだから、これを(現在の大企業のウォールド・ガーデンによる便利だけどサイロ化されたものから)利用者がプライバシーと選択肢を持ち、透明性という開かれた価値によって規定されるよう正すことが重要であり、それが開かれたウェブを守る方法だと力説します。
この文章に対し、オープンソースのブログソフトウェア(というか、Drupal と同じくコンテンツ管理システムと書いてもいいでしょうが)の WordPress の原作者であるマット・マレンウェッグも全面的な賛意を表明しています。心情的にこれに賛同したい気持ちはワタシにもありますが、問題のアルゴリズムがネット企業の収益性のキモである以上、アルゴリズムの FDA が果たして実現可能なのか訝しく思うというのが正直なところです。
一方で、今年の6月に The Atlantic で公開されたエヴァン・ウィリアムズの取材記事「インターネットのフォレスト・ガンプ(The Forrest Gump of the Internet)」は、日本語圏のインターネットではまったく話題になりませんでしたが、個人的にはこの記事の副題「エヴァン・ウィリアムズは自由で開かれたウェブを作り上げるのを助けて億万長者になったが、今彼はそれが負けるほうに賭けている」を見たときは、彼はそうしたオープンウェブの理想に背を向けたのかと衝撃を受けたものです。
この記事のタイトルである「インターネットのフォレスト・ガンプ」とは、エヴァン・ウィリアムズが Blogger、Twitter、そして現在の Medium と何度も起業し、それぞれ成功を収めていることを指しているのだと思います(Odeo におけるポッドキャストへの取り組みは、ほぼなかったことにされるわけですが。なお、この記事は彼の Medium にいたるまでのキャリアについても詳しいですが、それについては『ツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切り』を読まれるのがよいでしょう)。ただ、その彼を億万長者にしたウェブについて、「オープンウェブはすっかり壊れてしまった」と、現在の彼の見方はやはり悲観的です。
この記事の執筆者の注記も奮っています。「実際には、あなたはまさにこの記事をオープンウェブ上で読んでいる――あなたの携帯の Facebook アプリで記事を見つけたんじゃなければね。その場合でも、あなたが読んでるのはこの記事のオープンウェブ版とほとんど同じだ。Facebook のサーバ上にあるから記事の読み込みはそっちのほうがずっと早いけど」
エヴァン・ウィリアムズも、今でも誰もがいつでも自分のウェブサイトを持ち、その主張をパブリッシュする――まさに20年前に彼を心底興奮させたこと――のが可能なのは認めています。それでは何が変わったのか? 彼が指摘するのは、その「配信ポイント」が集約しつつあるということです。
その「配信ポイント」は検索エンジンとソーシャルネットワーク、つまりはここまで何度も名前を挙げている Google と Facebook に加え、Twitter や Snapchat などメッセージングアプリになるわけですが、そのリストには Google 配下の YouTube、Facebook 配下の Instagram や WhatsApp も入るわけで、やはりこの二大巨頭が際立つわけです。この記事でも、オンライン広告に1ドル使われると、その85パーセントは Google と Facebook に行くという話が引き合いに出されています。
この状況をウィリアムズはよくないものととらえていますが、しかし、口ぶりは落ち着いており、さほど意外ではなさそうです。ここで彼が引き合いに出すのは、鉄道、電気、ケーブルテレビ、電話などいろんな分野が辿った、当初は自由で開かれた産業がやがて独占企業によって閉じられてしまうティム・ウーのマスタースイッチ論です(邦訳は『マスタースイッチ 「正しい独裁者」を模索するアメリカ』)。そのネットワーク効果と規模の経済の勝利が、インターネットにもあてはまるとウィリアムズは考えているのです。
ウィリアムズは、Medium 自身がプラットフォームとしてウェブの一部を「集約」することで、「配信ポイントの集約」に抵抗しようとしています。これがオープンウェブの理想に背を向けたと言えるのかは分かりませんが、Medium を指してかつて言われた「プラティッシャー」という言葉は、プラットフォームとパブリッシャーをかけあわせたものであり、確かにプラットフォーム志向なのは確かでしょう。「Medium はブログ公開のツールではない」というタイトルだけ見ると意外な宣言も、その自信のあらわれでしょうか。
配信ポイントが集約されてしまった現在のインターネットを、ウィリアムズはカロリー提供の効率性だけが優先される、食品が工場で生産されるシステムにたとえます。それでは高カロリーな加工品がもっとも有効ということになりますが、それでは持続可能性(sustainability)や健康や栄養の問題があり、利用者の幸福につながりません。記者は、Medium を自然食品や有機農産物なども品揃えした高級志向寄りの食料品小売店であるホールフーズ・マーケットにたとえていますが、Medium のスッキリとしながら少し高級感のあるデザインは、確かに言いえて妙かもしれません。
この記事で面白かったのは、記事の執筆者がエヴァン・ウィリアムズを、アイザック・アシモフの『ファウンデーション』シリーズの登場人物であり、銀河帝国の衰退を予言し、それを「心理歴史学」により最小限に食い止めようとする数学者ハリ・セルダンになぞらえているところです。Medium がウィリアムズが望む成功に達するかはともかくとして、ポール・クルーグマンをはじめ、多くの人を魅了した「心理歴史学」のアプローチが今のインターネット、そしてウェブの未来を考えるのに必要とされている気がします。
さて、ここまできてようやく本文の冒頭で触れた Decentralized Web Summit の話にいたるわけですが、Internet Archive の創始者ブリュースター・ケールをはじめ、「インターネットの父」ヴィントン・サーフ、そして何より「ウェブの発明者」ティム・バーナーズ=リーというインターネットの「心理歴史学」者たる錚々たる面子が集結し、基調講演を行っています。
このイベントについてもっとも詳しい日本語のレポートは、マガジン航の「新しいウェブ世界構築のための議論」で読めますが、本文においてもやり玉に多くあがっている Google の副社長兼チーフ・インターネット・エバンジェリストでもあるヴィントン・サーフの歯切れがいささか悪かったり(それでも Google はこのイベントのスポンサーを務めており、立派です)、ティム・バーナーズ=リーが名指しで Twitter を指弾しているのに苦笑いしてしまいますが、ともかく現在のウェブが中央集権的にコントロールされており、これを分散的で非集中型の、よりユーザのプライバシーが重視されるものに変える必要があるというところで一致しています。
実際に「非集中型のウェブとは何か?」と問われると、テクノロジー世界のエキスパートの意見は様々になるわけですが、エリック・ニュートンの食べ物を使った暗喩は、上で引いたエヴァン・ウィリアムズの話に近いものを感じます。
Decentralized Web Summit では、大立者たちの講演だけでなく、非集中型のウェブを実現するための実際の技術的な取り組みも発表されていますが、Ethereum、並びにそれをベースとする投資ファンド The DAO の名前を見かけ、やはりブロックチェーン技術の応用というトレンドはやはりここでも引き合いがあるようです。
もっとも DAO ですが、1.3億ドルもの資金を集めて始動したものの、Decentralized Web Summit の直後にハッキング攻撃を受けて仮想通貨が流出し、ハードフォーク問題を突きつけられるという苦難に直面しています。
非集中型のオープンなウェブを再興しようという試みにしても、これだけウェブが商業プラットフォームとしても巨大化してしまうと少し途方に暮れてしまうわけですが(だから、イーサン・ザッカーマンがポップアップ広告を開発したことの謝罪が、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』の最後で、山椒魚を見つけた船長を資本家にとりついだ門番の苦悩めいて見えるのです)、ウェブを生成力のある場に保つなら意義ある試みですし、それに関連するテクノロジーはおさえておく価値があるものでしょう。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。