original image: yk_stock / stock.adobe.com
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『暗号技術大全』、『セキュリティはなぜやぶられたのか』、『超監視社会――私たちのデータはどこまで見られているのか?』などの著書で知られる情報セキュリティ分野の第一人者のブルース・シュナイアーは、2019年あたりから「Public-Interest Technology(公益テクノロジー、公益のためのテクノロジー)」という言葉をよく使うようになりました。
その初期に書かれた「公益のためのサイバーセキュリティ」を読むと、インターネットのセキュリティという重要な政策課題について、技術的な観点から議論できる政策立案者がほとんどおらず、また一方で政策立案者と議論できる技術者もほとんどいないことへの危機感が伝わります。このままでは両者の意見は常に食い違ってしまうが、それは不幸でしかないので、技術を理解する政策立案者だけでなく、政策を理解して関与する「公益的な」サイバーセキュリティ技術者が必要であり、20世紀において経済学者が公共政策を推進したように、21世紀は技術者が公共政策に関与し、推進すべきだとシュナイアーは訴えます。
シュナイアーは、public-interest-tech.comというこのテーマに関するの情報を集積したサイトをずっと維持していますが、彼ほど著名な人が継続して訴えているにも関わらず、あまりこの言葉は広がっていない印象があります。ワタシもこの文章を書くにあたり、日本語圏でこの言葉を取り上げた記事を探したのですが、市川裕康氏の「パブリック・インタレスト・テクノロジー(公益のためのテック)推進を目指す主要21大学が連携」くらいしか見つからず、唸ってしまいました。
この原因として、シュナイアーも指摘するように、言葉の定義が難しいのもありますし、コードこそが答えであり、テクノロジーは政治的に中立であるという「神話」がシリコンバレーを中心に広まっており、政治にかかわることへの忌避が強かったことが挙げられるでしょう。
もちろん「公益のためのテクノロジー」がこれまでまったく意識されてなかったわけではありません。例えば、米国でオバマ政権が始まった頃に「プラットフォームとしての政府」ということが言われました。これは、政府に関わるデータを積極的にインターネットにオープンにするので、民間も政府を自動販売機のように考えるのではなく、オープンデータを活用して自発的により良いサービスを実現しようという動きです。
ティム・オライリーはこの動きに呼応し、Web 2.0に倣って「Gov 2.0」を冠したカンファレンスを立ち上げましたし、ジェニファー・パルカは上でリンクした文章が書かれた2009年9月に全米の自治体にITエンジニアを送り込むプログラムなどを実施する非営利組織Code for Americaを設立しました(余談ながら、オライリーとパルカの二人は2015年に結婚しています)。
現実には、オバマ政権自体のトーンダウンもあり当初期待されたほどの成果が上げられませんでしたが、一方で「シビックテック」という言葉はかなり浸透している印象があり、市川裕康氏が書くように、「公益テクノロジー」は「シビックテック」という言葉のリブランドという側面があるのかもしれません。
今回は、ブルース・シュナイアーがこの「公益テクノロジー」について語る講演動画「インターネットの物語、そしてインターネットはいかにして道を誤ったか:公益技術者を求める呼びかけ」を紹介したいと思います。
シュナイアーは、これはインターネットが水(インフラ)になり、いかにしてその水が毒入りになってしまったかの話だと宣言して講演を始めます。
かつてインターネットの利用者は限られており、そこにはエリート主義もありましたが、シュナイアーを含む利用者が求めていたのは何より自由でした。インターネットというテック玩具で遊び続ける自由です。要は自分たちのテクノロジーを自分たちのやりたいように使いたかったということですが、初期インターネットユーザーの典型的な属性が、アメリカ人白人男性、そしてざっくりリバタリアンだったとシュナイアーは振り返ります。
これでワタシが思い出したのは、デヴィッド・ワインバーガーが、インターネットのアーキテクチャは特定の価値観を反映しており、それを利用すればその価値観を受け入れることを強く求められるが、それは良いことだと言い切っていたことです。今から思えば、彼のような「インターネット原住民」の価値観とは、つまりはリバタリアン寄りのアメリカ人白人男性のそれと言い換えることもできます。
当時、既存の権力はインターネットを理解しておらず、その存在に気付いてすらいなかったので、我々は好きなようにできた、とシュナイアーは語ります。やがて犯罪者がインターネットを利用するようになり我々の敵となりましたが、その取り締まりを理由にインターネットに目をつけ、我々のプライバシーを侵害しようとした政府こそが、真の敵としてインターネットユーザーに立ちはだかります。
シュナイアーは、初期ネットユーザがFBIやNSAと戦った1990年代の「暗号戦争」について、クリッパーチップ並びにキーエスクロウを断念させることで我々は勝利したと語ります。我々は正しかった。そして、その勝利で政府への勝ち筋を見切ったと傲慢になったが、それは間違っていた、とシュナイアーは反省します。インターネットの自由という夢は、その時既に壊れ始めていたのです。
かつて「敵」は常に外からやってきたので、脅威が内部にあるとは思ってなかったが、いつしかテクノロジーを自由の敵に変えたのもリバタリアン寄りのアメリカ人白人男性だった、とシュナイアーは語ります。企業がインターネットを支配し始めると、企業こそが事実上の政府となったのです。テクノロジー企業は次第に、しかし確実に旧勢力のようにふるまうようになりました。
テクノロジーの伝統であるオープン性を利用しながら、必要なものを利用したら、すぐにプラットフォームを閉鎖的なものにしたFacebook、検索市場の独占力を利用して検索結果に自分たちのプロダクトを優先させたGoogleなど、今やビッグテックは、どの政府よりも一般人の生活に影響を与え、検閲し、管理する強力な力を持ち、彼らはその力を経済的利益のために行使しています。やがてインターネットのビジネスモデルとなった「監視資本主義」に政府も便乗するようになったのを、我々はエドワード・スノーデンの暴露で思い知らされたわけです。
しかし、希望がないわけではなく、テクノロジーの独占力を減らすために我々にはできることがある、とシュナイアーは強調します。監視資本主義に制限を課す必要があるし、市場主導型でない成功の指標も必要というわけですが、「公益テクノロジー」は監視資本主義的な価値観のオルタナティブとも言えるでしょうか。
もはやテクノロジーと社会は切っても切れない関係にあり、我々の世代の主要な政策問題はいずれも技術的なものです。テクノロジーはおもちゃの集まりではなく世界を作る道具なのだから、公益に資するテクノロジーが必要なのだ、とシュナイアーは訴えます。
そしてシュナイアーは、技術者が権力のバランスを取り戻すためにできることとして以下の3つを挙げます。
まず一つ目は「新しいものを構築する」。つまり、新しいものを作れる余地はまだ残っているというわけですが、Code for Americaなどを例にしながら、我々は受動的な消費者としてだけではなく、社会の積極的なメンバーとしてテクノロジーを形作るのに参加できる、とシュナイアーは呼びかけます。
シュナイアーはテクノロジーは包括的な存在だと語りますが、講演の後半に特にinclusiveという単語を意識的に使っています。それは講演の最初で述べた、初期インターネットユーザーの価値観がリバタリアンなアメリカ人白人男性に無自覚に寄っていたことへの反省があるのかと推測します。
続いて二つ目は「権力の分配」です。今は無料でアクセスできるプログラミング教育などで力を得られるし、シュナイアーはサイバーセキュリティ政策について教育することで、公共政策の学生をセキュリティの専門家にしなくても、彼らに政策課題を理解してもらい、技術の専門家を尊重してもらうのが目標だと語ります。権力の分配は、より厚いレベルの市民社会を生み出すし、それが古い権力に対抗するのに不可欠です。
そして三つ目は、「政府に住みつく」こと。政府を敵とみなすだけではなく、解決策の重要な部分なのだから利用しないといけません。そのためにはテクノロジーと政府の関係を根本的に再調整する必要があります。シュナイアーは、政府がCOVIDと戦うのを支援するボランティア技術者の集まりや台湾のデジタル大臣であるオードリー・タンを例に挙げながら、テックワーカーを政府に引き入れる取り組みを強化する必要があると語ります。
米国は一万人もの技術者を政府に引き込もうとしているそうですが、それには公益技術者として実現可能なキャリアパスの構築も必要になります。ガバナンスを広くとらえるなら、もっと多くのことが考えられます。テクノロジーの歴史は傲慢に満ちているが、我々はこれに謙虚に取り組む必要があるし、技術だけが唯一の解決策だった時代はもう終わっており、自分が属する以外の分野の人からどう学べるか常に考えないといけない、とシュナイアーは「これはプロセスであり、製品ではない」とかつてセキュリティについて語った有名な言葉を、公益のためのテクノロジーの文脈に当てはめてみせます。
人工知能、IoT、5G、ビッグデータ、ロボティクス、バイオテックがもたらす大きな変化により、コンピュータはますます自律的な意思決定を行い、世界に直接的な影響を及ぼします。短期的な企業利益よりも、プライバシー、人権、自由、民主主義といった自律性を優先すべきで、それによりどんな未来を共に創造できるか明確に決める選択ができます。これなら我々は勝てるし、我々は新しい力なのだ、とシュナイアーは講演を締めています。
「公益テクノロジー」という言葉はやはり座りが悪い感がありますが、その重要性は分かったように思います。シュナイアーも例にするように、新型コロナウイルスとの戦いで行政分野のテクノロジーの活用こそが重要課題なのを、我々はこの3年近く思い知らされ続けました。
ただ、未だ政府から公開されるデータの形式がバラバラという記事を見かけるに、本邦は未だスタート地点にも立てていない印象ですが、日本にもCode for Japanといった「公益テクノロジー」の担い手は確実に存在し、昨年にはデジタル庁も発足しており、とりあえずは接触確認アプリCOCOAの反省を活かしてほしいとは国民の一人として願うばかりです。
今年になって、米国の国家サイバー局長を務めるクリス・イングリスが、サイバーセキュリティ分野での官民の密接な連携を可能にするために新たな「サイバー社会契約」が必要と訴えており、公共部門と話ができる民間の公益技術者が求められているのは間違いありません(ただ、クリス・イングリスの文章には、もっと官が民のグリップを握りたいという野心を感じる点には注意が必要ですが)。また、もはやデジタル社会のインフラを成すオープンソース・ソフトウエアのセキュリティに関して、Open Source Security Foundation(OpenSSF)が米国政府と複数回ミーティングの機会を持つなど連携を模索するのも「公益テクノロジー」の一つのあり方と言えるでしょう。
ただ残念なことに、このトピックについて書かれた本は、ブルース・シュナイアーによると、これまでのところタラ・ドーソン・マクギネスとハナ・シャンクの『Power to the Public: The Promise of Public Interest Technology』一冊しかないようです。
この本についてはバラク・オバマ元大統領が、「非営利組織や政府がいかにテクノロジーを活用して現代の最も差し迫った問題を解決できるかを解説する本。良い例がいくつも紹介されており、変化を起こすのに関心がある人は読む価値あり」とツイッターで推薦の言葉を寄せていますが、これは著者のタラ・ドーソン・マクギネスがオバマ政権のヘルスケア分野で重責を担ったこと、具体的には医療保険加入サイトHealthCare.gov立ち上げ時の壮絶な挫折とその後のシリコンバレー技術者を駆り出しての復旧という貴重な経験があるからでしょう。もう一人の著者のハナ・シャンクは、シンクタンクNew AmericaのズバリPublic Interest Technology部門のシニアアドバイザーを務めており、こちらも経験は十分です。
本書において「公益テクノロジー」を「デジタル時代において、公益を促進して社会を良くすべくデザイン、データ、デリバリーを活用すること」と定義しますが、新時代の技術者に一般的なアジャイルな問題解決のアプローチの解説(ここで重要なのは、やはりデザイン、データ、デリバリーという3つの「D」です)、そして公益テクノロジーをいかに組織化できるか、そのために必要な官民の協力が主な内容になっています。
行政プロセスに技術的イノベーションをもたらすには、ユーザーを政策決定プロセスの中心に据え、データや指標を賢く利用し、小規模な実験を実施しながら規模を拡大することが重要です。それを制約の多い行政分野で実現するのはかなり難しいのは間違いありませんが、ソフトウエア設計に人間を中心としたデザインをもっと取り入れないといけないという著者たちの主張は、普遍的な説得力を持っていると考えます。
当然ながら本書で取り上げられるのはアメリカの事例ばかりで、そのまま日本に当てはまらない話が多いのも確かです。日本で「公益テクノロジー」について本が書けるとなると、それこそCode for Japan創始者の関治之さんや宮坂学東京都副知事くらいしか思い浮かばないのですが、そのあたりも課題なのかもしれません。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。