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目の見えない人の「赤が好き」 同じ物を見ながら、実は違うものを見ている私たち

目の見えない人の「赤が好き」 同じ物を見ながら、実は違うものを見ている私たち

2015.09.08

Updated by Asa Ito on September 8, 2015, 11:47 am UTC

目の見える人は日々、当たり前に感じている「色」。しかし、目の見えない人々の色の理解を聞いてみると、見えている私たちの色の感じ方も、ひとつではないことがわかってきます。

目の見えない人は、そして私たちは、色をどう理解しているか

「私の好きな色は赤です」。そう聞いて、私は驚きのあまり返す言葉を失ってしまいました。なぜなら、そう言ったのは見た記憶を全く持たない全盲の女性だったからです。見えない人に色の概念があるというのも驚きでしたが、色に関して好き嫌いがあるというのがさらに衝撃的でした。

目の見えない人が色をどんなふうに理解しているのか。気になって、それ以来いろいろな人にたずねるようになりました。ところが、その結果たどりついたのは、それとはちょうど逆の疑問でした。つまりこうです。いったい、目の見える私たちは色をどれだけ理解しているのか——?

色の理解は経験に大きく左右されます。見えていた時期のある人は、見えなくなってからもそのときの経験を利用できますが、そうでない人の場合は、色の理解は純粋に概念的になります。先述の「赤い色が好き」と言った全盲の女性の場合は、あるカテゴリーに対する名前として色を認識しているそうです。たとえば、りんご、トマト、さくらんぼ、血などが含まれるカテゴリーが〈赤〉、空、水、魚、海などが含まれるカテゴリーが〈青〉と言った具合です。彼女の場合、「赤が好き」とは、「〈赤〉というカテゴリーに含まれるものが好き」とおよそ同じ意味ということになります。知覚経験としての赤は知らないけれど、カテゴリーとしての赤は知っている、ということです。

「ファイル名がついていないものは保存されない」

 では、見えていた時期のある人の場合はどうでしょうか。「経験」というのもまた不思議なもので、いろいろ話をうかがってみると、どうやらただ見ただけでは経験にならないのだそうです。つまり、見たという知覚に、概念(色の名前)が伴ってはじめて、それは経験としてストックされるのだそうです。

たとえば、幼い頃に「これはレモン色だ」と思ってレモン色に相当する色を知覚した人は、見えなくなってからも、「レモン色」と言われればその色を引き出すことができます。けれども、たとえばやまぶき色に相当する色を見ていたとしても、それを「やまぶき色として」見たのでなければ、記憶されず、したがって見えなくなってから引き出すこともできないのだそうです。小学生のころに弱視になったKさんの言い方を借りれば「ファイル名がついていないものは保存されない」のです。

目の見えない人に色を伝えることはできるのか

 では、見えない人の経験によってストックされていない色、つまり名前を言われても引き出す情報がない色については、もはや伝えることができないのでしょうか。答えは、「イエス」とも言えるし、「ノー」とも言えます。伝えることはできるのですが、見える人がふつう使う意味での「伝わる」とはちょっと違う意味での「伝わる」なのです。

見えない人に色を伝えるにはどうしたらいいか。見える人がやってしまいがちなミスは、「青みがかった灰色です」のような伝え方です。なぜ「青みがかった灰色」はNGなのか。それは、この表現が「灰色に青を少し混ぜる」という混色の現象にもとづいているからです。

Image by Monique MartinezCC BY

見える人が「青みがかった灰色」と聞いて理解できるのは、「灰色に青を少し混ぜるとどうなるか」を経験的に知っているからです。つまり、絵の具遊びなどで、複数の色を特定の割合で混ぜるとどのように色が変化するのか、目で見て確かめたことがあるからです。

ところが、こうした混色を見たことがない人からすれば、青と灰色を混ぜるのは、海とねずみを混ぜるような出来事に感じられることでしょう。これでは納得できないのも尤もです。

ではどのように伝えればいいか。それには、「ほっとする色」「不安になる色」のように、感情や印象などの主観的な効果にのせて伝えることが有効です。Sさんというミュージシャンの全盲の方の言い方を借りれば、そのような表現をすることで色が「動き出す」。そうすると伝わるのだそうです。

Image by Taymaz ValleyCC BY

もちろん、「ほっとする色」という表現では、色そのものの視覚情報が伝わるわけではありません。その意味では、色は伝わってはいません。しかし、その色を見た人が受けた印象や感情、つまり色の与える効果は、見えない人に伝わっています。色そのものは共有していないけれど、見た人の印象や感情は追体験している。つまり「なるほど、その色はこういう感じなのね」という「共感」は起こっているのです。いわば「共有なしの共感」とでも言うべきコミュニケーションが、ここにはあります。

共有から共感へ。言葉にすることで、共有していると思っていたものが、さまざまに感じられていたことがわかる。

 面白いのは、こうやって見える人が色を言葉にしていくと、その表現が人によって実にさまざまであることです。同じ色を見てほっとする人がいるかと思えば火事を連想する人がいるし、ある人が渋いと言った色が、別の人にとっては透明感のある色と形容されたりします。同じことは物の形についても言うことができるでしょう。私たちは、同じ物を見ながら実は相当違うものを見ているようです。

目の見える人は、自分の目に見えている物は他の人にも同じように見えていると考えがちです。視覚的な世界を、客観的で絶対的なものと考えがちなのです。そのせいか、見えているものについては語るまでもない、というような風潮さえあります(実際、私たちが色について語る機会のいかに少ないことか!)。語るとしても、「ねえ、あれ見て」「わあ、すごい」と指差すだけで、何かが共有された気持ちになっています。

けれども、もしかしたら、その「共有」は実は「共有したつもり」にすぎないのかもしれません。そのことを教えてくれるのが、障害のある人です。見える人だけがいる場に見えない人が加わると、見える人は、あいまいに共有していたことを言葉で伝える必要に迫られます。そうして言葉にしてみると、共有していると思っていたものが実は人によってさまざまに感じられていたことに気づかされるのです。

障害のある人と関わるとき、最初に意識されるのは、「障害者」と「健常者」というカテゴリーです。けれども次第に、健常者というカテゴリーの内部が実は多様であるということが明らかになってくるのです。障害者が加わることで、健常者と言われる人たちの違いが見えてくる。お互いの違いを知ったうえで理解するのが「共感」です。障害が触媒のように働いて、「共有」の鎖がほどかれ、「共感」によって人びとが結びつくきっかけが作られるのです。

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伊藤 亜紗(いとう・あさ)

1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得退学。同年、博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員などを経て現職。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、参加作品に小林耕平《タ•イ•ム•マ•シ•ン》(国立近代美術館)など。