異なる領域から人工知能研究に転身した人は多いが、最初から人工知能の研究者を目指したのは中島氏が日本で最初であると言っていい。つまり日本の人工知能研究は中島氏から本格化した。今やメディアで引っ張りだこの松尾豊氏(東京大学准教授)も彼の教え子である。その中島氏がシンギュラリティブームの中で右往左往する日本社会をどう観察しているのか、そして日本の人工知能研究、あるいは事業化がどうなっていくのかを予測する。(竹田)
中島 シンギュラリティ(Technological Singularity:技術的特異点)とも関係してきますが、技術進歩は猛烈に早くなっている。だから、AIというよりも、IT全般がそうなんだろうけど、2つのことが大きく変わる。一つは仕事の対象領域(ドメイン)、特にエキスパートのドメイン自身が変わっていく。技術知識が予想を超えるスピードで更新されることでドメインが移らざるを得ないわけね。もう一つは、AIが仕事の一部に入ってくるので、どうそれを使いこなすかという意味の、今までになかったような新しい学習が必要になってくるという側面。この2つが大きく変わります。
今までだと、基本的に知識もすべて自分で覚えて、自分で考えて、全部実行するというのが原則だったんだけど、例えば車のエンジン設計にしても、全部やらなくてもよくなるでしょうね。
CADがあるから便利、というようなレベルの話ではなく、メカニズムデザイン自体に人が介在する必要がなくなるわけです。様々な制約や条件を入力してしまえばあとは人工知能と機械に任せてしまえばいい。その時エンジニアに必要なのは「こういうクルマがあったらいいなあ」というある種の“想い”になるはずです。つまり人間にとって一番大事なのは、「どういう車をつくりたいか」を決めることなのですね。それは今までの車のデザインの延長線上の作業ではないです。全く違う。使い方とか、都市設計とか、全部含めた上で車をデザインしていくということになるはずなので、「車のエンジニアの仕事も随分変わったねえ」ということになりますよ。
ついでに車の例でいくと、今、カーシェアリングが話題になっていますが、たぶん個人が楽しみで乗るスポーツカーと、トランスポーテーション用のシェアリングカーというのが分かれてくるときに、1台の同じ車を両方に使うということはなくなるでしょうね。両者のデザインは相当違うものになるはずです。
EVが一番面白いのはデザインの自由度が増すという点にあると思うのです。自由度が増したときに、「どの方向に行くのか」はやはり人間が決めることになる。これはAIではできない。ただ、決めてさえしまえば、後の細かいところは全部機械やAIがやってくれますよ。
── もはや大学で機械工学を学ぶ必要はない?
中島 たぶんね。絵画がわかりやすいかも。写真(技術)がない時代は写実というのは非常に重宝されたはずです。画家は(肖像画を含めて)写真のように表現する技術を磨いてきたわけね。でも、写真が出てきたら、もうそういう絵を描く人は(一部残っているかもしれないけど)一般の私たちの前からは消えちゃったでしょ?抽象度の高い作業の方にシフトしていると思うのです。どういう絵を描きたいかという“発想”とそれを実際に描き上げる“技術”の両方が今まで必要だったんだけれども、その技術のほうは、(写真の普及によって)不要になりつつある。少なくとも比重は減ってきているはずです。それと同じようなことが車の設計にも当てはまる世の中になる、といえばわかりやすいかな。
── いわゆる身体知みたいなものが失われていくという懸念はないですか。
中島 それはないと思います。何をつくりたいかという想い自体に身体性は絶対に入ってくるので。そもそも僕自身が「体が覚える」という感覚をあまり信用してない、というのもあるのだけど、もう少し体系化して身体知にしなきゃならない。
── 「想い自体に身体性が入ってくる」というのはどういう意味ですか?
中島 “身体性”にも2種類あって、一つは実際に道具を使うという意味の身体性ね。もう一つは、つくりたいものを感じるための身体性。ヒトが乗って楽しいクルマとは何かを感じ取る能力、つまり優れたユーザーとしての身体性は重要になるでしょうね。デザイン側ね。これはAIにはわからない。車がどうできていると心地よいか、というような話は人間の側にあるので、そっちの身体性は常に強く関わってきます。
たまたまさっきまでホテルのデザイナーと話をしてたんだけど、こっちの方がわかりやすいかも、ということでご説明しますが、例えば一般論としては広い部屋のほうが居心地がいいわけですね。だけど、広ければいいかというとそうでもなくて、狭くてもすごく使い勝手のいい快適な部屋もあれば、広いだけでどうにも使いにくい部屋もある。
後者はおそらくデザイナー自身があまりホテル生活していないんだろうなと思うわけです。自分で泊まったことのないデザイナーにはその部屋がどうあるべきかがわからない。そういう意味の身体性ね。だから、AIは理想のホテルの部屋を設計できない、とも言えるわけです。
── だから大学で機械工学を学ぶ必要はない、と。
中島 基本的にはそう思います。ただ、“土地勘”は必要。車の設計を実際にできる必要はないけれど、車というのはどういう構造になっているのか、くらいは知っていなければいけない。だから、ユーザーとして、僕が知っている程度の車の基本構造に関する知識はあったほうがいい。定性的な知識があれば定量的な知識は不要、と言えばわかりやすいかな。
── 感性が重視されるということになってきますね。
中島 感性を“磨く”という言い方は誤解を招くので使うべき表現ではないと思うけど、子どものころから昆虫を飼っているとか、鳥を飼っているとか、野菜を作っていたとか、そういうのは大事でしょうね。教育は「中身を教える」ということと「場をつくる」ことの2種類がある。感性に関して言うと私たちができることは「場をつくること」だけでしょうね。
例えば「教育の場」ということで言うと、今、オンラインのコンテンツがいくらでもあるわけです。ビデオを見る、あるいはもっと高度なMOOCsみたいなものもあるし、実際にウェブのページとインタラクションしながら、プログラムを教えるなんてのも含めると膨大な“教材”が溢れている。もちろんそれらを否定するわけではないけど、もっと大切なのは「友達と一緒に考える」ということなのね。AI教材が増えれば増えるほど、「その場で友達と考える」がかなり重要になってくるはず。
だから遠隔教育の場合でもクラスルームは絶対必要。そのクラスルームをVR(バーチャルリアリティ)でつくるという話には、私としては否定的です。人間同士のインタラクションの場がなくて、(本当の)教育はたぶんできない。
中島 イギリスって大英帝国だったわけでしょ。だから、未だに留学生を欲しがるのね。でイギリスの大学に留学生を呼び込むためには、イギリスがトップになるようなランキング方法を考えなくてはいけない。それがタイムズ・ハイヤー(The Times Higher Education)やQS(Quacquarelli Symonds)がやってることなのね。だから、あんなものをそのまま信用してはいけない。イギリスがトップになるようにできているんだから。日本も、日本がトップになるランキングを作ればいいんですよ。
── そもそも「理想の大学」ってどういうものだと思いますか?
中島 大学って、少なくとも2通りあると思っていて、いわゆる「理想の国立」と「理想の公立」。 「理想の国立」では、次の日本を支える人たちをつくりだす。「理想の公立大学」は、今、世の中に役に立つ学生を育てる。私学はそれぞれに建学の精神があるから、それを遂行してもらえば良いので、ここの議論には含めません。
── 国か地域か、みたいな話ですか。
中島 いや。タイムスパンが違うんです。だから、「公立」は“今”、「国立」は10年後か20年後を射程に入れる。
── 「役に立つ」というのは経済的な意味でということですよね?
中島 いろいろ意味がありますけど、例えば国立でいうと研究者を育てる、いい官僚を育てる、そういう役目ね。教師を育てるとか、エンジニアを育てるとか、要するに社会に出ていくあらゆる人種のトップクラスをつくる。特に研究者の場合、基本的な使命は「新しいことを考えること」でしょう。
── 発見ではなくて発明ですね。
中島 基本的にはね。だけど物理学だったら新しい発見ができる人だし、生物学だと、治療とか生物の発見、両方ありますけどね。ともあれ自分の人生を賭けるに値するような仕事かどうかという判断が重要。そこにこだわれないとそもそも研究者にはなれない。産業インパクトだのイノベーションだのというのは、結果論に過ぎない。少なくとも目標にはならないはず。少なくとも「国立」はそうでなくてはならない。(売上などの)数字が出てくる話は企業がやるべき仕事でしょう。
── 企業でも最近はESG投資(環境:environment、社会:social、企業統治:governance、に配慮している企業への投資)が重要だと叫ばれ始めましたが。
中島 「環境に優しい」という言い方は間違いだよね。あれは「人間に優しい」でしょ。人間に優しい環境をつくるというのが正しい。地球に優しい環境って定義できないんですよ。人間がいる・いないとは無関係にね。例えば植物が生まれて光合成を始めたけど、これはそれまでの生物にとっては毒である酸素を吐き出す活動なわけで、あれは本当に地球に優しいんですかね?という議論になる。酸素がなければ火災もないし、鉄も錆びない。つまり全ての活動は単なる変化なんです。いいも悪いもない。
── 優れた研究者の条件って何ですかね?
中島 自分のやってることについてのこだわりと美意識があることでしょうね。しかしそのこだわり自体を周りがサポートするのは難しい。そもそも教育のフェーズに応じて周りの支援の方法は変わりますね。例えば小学校や中学校は“社会の型にはめること”が教育になる。ここで逸脱を許すとあとが面倒になる(笑)。日本語の読み書きを含め、常識を持った良き市民になれそうな種を育てるのが初等教育のミッションでしょう。基本的な礼儀やコミュニケーション能力をきちっと学んでいただくことをサポートする義務が私たちにはあると思いますし、それは可能だと思います。ところが大学の研究者になってくると、そこから逆にはみ出すことが要求されるようになる。そして研究や学習に限らずあらゆる生活の場面にAIが入り込んでくることも想定しなければならない。面倒だよね。
話が少し脱線するけど、STEMってご存知ですよね?
── はい。"Science, Technology, Engineering and Mathematics"を重視した教育を施すことで科学技術開発力を育てようとすることですよね。
中島 そのSTEMにArtを入れようとする動きがあるんだよね。これはちょっと面白いかなと思っています。物理の話で言うと、ニュートンの運動の法則ってあるでしょ? モノを投げると放物線になりますというやつね。1/2gt2という方程式があるんだけれども、それは理想状態、つまり摩擦も空気もない状態です。誰か、これ実験したことがあるの?というと、ないわけです。真空の中でやっても必ず計測の誤差がある。そうすると、本当に2分の1という係数なんですか、というのを僕はけっこう疑問に思っています。2.0001分の1の可能性を否定できない。でも理論的に2分の1だと物理屋さんは言う。しかし理論どおり世の中が動いているって、誰が証明できるんですか?
同様に、例えば超ひも理論というものがある。素粒子は実際には10次元のひもであって、みたいな話をするわけですよ。10次元のひもなんて、誰も見たことがないわけね。理論的な仮説に過ぎない。でも、相対性理論と量子力学の統一理論を作ろうとするとそういうものを仮定しなければならない。そしてこれを実験で証明しなければいけない。で、10次元のひもがあるとするとすれば、こういうものが見えるはずだ、という仮説を作る。そしてそれを見るための実験装置を作ってみたらほら見えました、という順序なのです。(重力波もそうだけど)それって自分が見たいものを見てるだけなんじゃないの?と言いたくなる。
物理は本当に真実を語っているのかは実はよくわかりませんね、ということになる。彼らも実はそれをよく理解している。そしてこういう話は本当は中学や高校の先生が理解していないといけない。そうでなければ本当の物理が教えられるわけがない。
ところがそれを理解しないまま物理を子供に理解させようとすると「とりあえずこれを覚えておけ」という教育になってしまう。これでは物理を毛嫌いする子供を量産させるだけです。最近の動きでいうと小学校からのプログラミング教育がまさにこれです。これはね、悲惨なことになりますよ。最近、英語教育をロボットでやろうとういう話が出てますが、使えそうなのはこれだけだね(笑)。いずれにしてもやる前から効能が見えているようなものは教育ではない。少なくとも(前述の)“理想の国立”ではやってはいけない。そう思います。
(談)
中島秀之(なかしま・ひでゆき)札幌市立大学 理事長・学長
1952年生 1983年東京大学大学院工学系研究科情報工学専門課程修了(工学博士)電子技術総合研究所産業技術総合研究所、公立はこだて未来大学、東京大学を経て現職。
『知能の物語』(公立はこだて未来大学出版会)
これまでの人工知能研究の歴史とこれからの人工知能研究が生成しようとしている物語を語る。知能・認知科学に関心のある読者には必携の書。
聞き手:竹田茂(たけだ・しげる)
1960年生 日経BPを経て2004年にスタイル株式会社を設立(代表取締役)、WirelessWireNewsプロデューサ。
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登録はこちら札幌市立大学 理事長・学長。1952年生。1983年東京大学大学院工学系研究科情報工学専門課程修了(工学博士)電子技術総合研究所産業技術総合研究所、公立はこだて未来大学、東京大学を経て現職。