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自動運転車が「安心」を獲得するために必要なこと

2019.06.04

Updated by 特集:モビリティと人の未来 on June 4, 2019, 12:27 pm UTC

安心は心理的・主観的な概念だと書いた。それはそれで間違ってはいないはずである。もっとも、これも、何度か書いてきたことだが、安心を英語に直せ、と言われて、直ぐに思いつく言葉は何だろう。実は〈security〉が、本来ぴったりな言葉なのである。今は、この言葉はどちらかというと厳めしい感じを与える。軍事的な安全保障、あるいは生命保険のような個人の安全保障、個人の生存の権利の保障、などに使われるからだろう。しかし、この語の源はラテン語で〈sed+cura〉に由来する。〈sed〉は「〜なしで」の意味があり、〈cura〉は英語の〈care〉と同じで「心配事」だから、全体では「心配から解放されていること」となり、まさしく「安心」である。安心が行き過ぎると「油断」になるが、〈security〉の古い使い方には、まさしく「油断」があったと、辞書は教えてくれる。

しかし、このように捉えたのでは、原子力サイトがあっては安心できない、などという時の「安心」を説明することができないだろう。つまり人間が単に悩みや苦悩から解放されている、というだけではない種類の「安心」を取り上げなくてはならないのである。この種の「安心」は、悩みや心配の種が、言い換えればリスクが、自分の外にあって、そのリスクの管理も、自分の責任外のところにある、という特徴を備えている。

例えば先ほどの〈At your own risk〉の場合には、リスクの絡む人為は、自分自身の問題である。「何かを敢えて行おうとする」ことがリスクを成り立たせる要件の一つだったが、この場合、その行為に及ぶ当事者は自分自身である。しかし、先の原子力サイトの場合には、リスクを生み出す行為の当事者は、安心を求める人間と同一ではない。勿論、原子力サイトを運営する人々も「安心」を願うだろうが、それよりも遥かに多くの「外の」人々が「安心」を求めている。そしてそれらの人々にとっては、安心は言わば他人任せにならざるを得ないことになる。

そこで、重要なもう一つの要素、すなわち「信頼」を論じなければならなくなる。つまり現代社会における「安心」は、個人の外部に存在する社会的組織体、あるいは社会システムをどれだけ信頼できるか、という観点から考えなければならない。勿論「信頼」もまた、心理的・主観的な概念である。例えば未知の人にであったとき、「何となく信頼できそうな」というような感覚は誰しも持つだろうし、その逆もまた十分にあり得る。こうした感覚は客観的合理性とは別のカテゴリーの領域に属する。対象が、個人ではなく、製品であったり、組織であったり、社会システムであったりしても、変わらない側面も確かにある。先に触れたように、車社 会の今日、私たちは、謂われのない信頼を、車の挙動に対して抱いている、とも考えられる。

話は多少ずれるが、冒頭に述べた私の運転歴のなかでも、信頼は重要な役割を演じてきている。当初、車は故障するもの、と思っていた。人工物である以上一〇〇%の信頼を置くことは無意味だ、という前提が私にはあった。私は今でも、道具や装置の作動限度一杯の使い方ができない。許容されている作動限度の八分目程度以上に、作動させることができないのだ。それは結局、人工物に対して満幅の信頼をおいていないことの現れだろう。

車もまた当然、様々な作動に関して、信頼は七分目ほどであった。実際、当初車は時々故障した。パンクをしたこともある。教習所では、走る前に、必ずボンネットを空けて、ベルトの緩みや傷、バッテリー液の確認などなど、定例の点検をするように、と言われたものである。しかし、いつの頃からか、私は全くボンネットを開かなくなった。時々、本当に時々、タイヤ圧を視認する程度になった。それだけ、故障は確実に減ったのである。免許証を返納するころには、私の車に対する信頼は一〇〇%に近くなっていたと言えるだろう。勿論、そのことに、合理的な根拠はないかもしれない。要するに自分の経験のなかから、たまたま割り出したに過ぎない。ただ、信頼ということには、そうした要素が常に絡んで生まれてくる、ということは言えるはずである。

外在化する社会システムや、個人に管理能力のない製品などについては、安心と信頼とはほとんど同義語となることは明らかだろう。その点で、重要な例となるのが、日本の高速鉄道であろう。いわゆる新幹線であるが、最初に東海道新幹線が営業を開始した際、東京・大阪間がたしか四時間、最高時速二一〇キロメートルだった思うが、大阪在住の知人が、「そんな危ないものには、絶対乗られへん」と息巻いていたのを思い出す。今では、彼も、何も言わずに、安心して新幹線の席に坐って東京にやってくる。それだけの信頼性を得る背景には、一方に客観的な事実の積み重ねがあったことは確かだろう。

よく言われることだが、新幹線の乗客輸送という営業に直接関わる死者は、未だにゼロである。もっともこの点には、幾つかの幸運も重なっている。その最たる事例は、阪神・淡路大震災だろう。あの震災で、新幹線の基礎構造物も大きな被害を受けた。仮に営業運転中であったら、どれほど悲惨な事故になったか、肌に粟を生じる思いがする。巨大地震が起こったのは朝五時四六分五二秒、営業時間までほぼ十三分、「奇跡の十三分」と言われるゆえんである。幸運はもう一つある。中越大地震の際、上越新幹線の列車が脱線事故を起こした。仮に対向列車が現場にさしかかっていたら、やはり大惨事になっていただろう。

他方東日本大震災では、架線を支える支柱は相当数被害を受けたが、基礎構造物の損壊はなく、営業中の二七本の列車はすべて、一人の怪我人を出すこともなく、安全に停止(一本は停車中であったと聞く)している。考えれば、このことは「奇跡」に近い。今自動車では後部座席の乗客もシートベルトを締めることが義務付けられている。しかし、タクシーなどで、町中を走っている際に、これを守っている利用客の数は非常に少ない。利用時間が短いのと、町中で の速度がたかが知れている、という前提があるからだろう。高速道路を利用する場合は、運転手も極力シートベルトを締めるよう促しているようだが。その自動車の場合、まともに走る限り、時速一二〇キロメートルを越えることはない。しかし、新幹線は常時二〇〇キロメートルを越えて走っていて、シートベルトはないのである。

もとより、非常時に緊急停止をする列車制御システムも、見事に機能したことは確かである。 適切なポストに、地震の初期微動を感知する「ユレダス」を配備し、瞬時に走行中の列車に指令を送る、というメカニズムが、上のような成果を生んだ原動力であった。しかし、そのメカニズムは、シートベルトを締めていない(元々ないのだから)乗客の安全に対しても、十分に配慮されていることになる。

新幹線が、これまで、極めて安全な交通手段としての実績を持ち、かつ人々からも「安心」できる乗り物として信頼をかち得てきたのは、上述のように、確かに幸運も働いていたには違いないにしても、不断の努力の積み重ねがあったからに違いない。それは、乗り物自体もさることながら、それを働かせる社会システム全体に関して、人々が信頼を寄せるだけの実績を示したからであろう。もとより、運用上も、乗客の利便性が時に損なわれるほど、慎重な方法をとってきたことも一因だろう。降雨や風に対して、社会常識よりもかなり神経質に運転休止を図ってきたことは見逃せない。

上のような事例は、今後社会が自動車の自動運転を採用する方向に向かうにも、参考となるところが多い。どちらも、車両や自動車の性能が重要であると同時に、あるいはそれ以上に、それを支える技術的、社会的システムの信頼性が問われるからである。

村上陽一郎(むらかみ・よういちろう)
科学史家、科学哲学者、東京大学名誉教授、 国際基督教大学名誉教授

(『モビリティと人の未来』第2章「安全と安心の狭間で」P045−049より抜粋)


モビリティと人の未来

モビリティと人の未来──自動運転は人を幸せにするか

自動運転が私たちの生活に与える影響は、自動車そのものの登場をはるかに超える規模になる。いったい何が起こるのか、各界の専門家が領域を超えて予測する。

著者:「モビリティと人の未来」編集部(編集)
出版社:平凡社
刊行日:2019年2月12日
頁数:237頁
定価:本体価格2800円+税
ISBN-10:4582532268
ISBN-13:978-4582532265

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