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イスラエル 遭遇 異邦人 イメージ

キブツを体験した日本人 中東戦争に遭遇した柳敏昭氏(前編)

2019.10.25

Updated by Hitoshi Arai on October 25, 2019, 14:31 pm UTC

以前、1964年に日本人グループとして始めてキブツ研修を体験した14名のグループのメンバーであった内山拓郎氏を取材して、2回に分けて記事として掲載した。

1964年、日本人が初めて「キブツ」を体験した(1)
1964年、日本人が初めて「キブツ」を体験した(2)

調べてみると、まず1964年から66年にかけて、イスラエル外務省により企画された3回のプログラムが実施され、計47名の日本人が参加したことがわかった。内山氏は、そのうちの一人である。その後、この派遣事業は日本キブツ協会に移管され、1967年から74年まで、合計26回実施されている。毎回の参加者数は様々だが、累計376名がキブツを体験した。その後も、主管を変えて事業が継続され、初回の1964年から2000年までの合計で930名の日本人がキブツを体験している。

内山氏の体験談があまりに刺激的だったこともあり、50年ほど前のあまり知られていない歴史を書き残すことにも意味があると考え、引き続き他の参加者の取材を試みた。その結果、元日本キブツ協会の竹内氏から、1967年に内山氏と同じキブツ「ダリア」を体験した柳敏昭氏をご紹介いただくことができた。

柳氏は、1946年北海道の農家に生まれ育ち、中学の英語教師となることを目指して北海道教育大学に進学した。その時に学んだゼミの先生が僻地教育の研究をしており、僻地教育は共同体での教育に通じるところがあるということで、柳氏先生からキブツ研修を体験してみることを勧められたという。

最初は、北海道教育大学の学生だけを、ラマト・ヨハナンというキブツへ派遣するプログラムを紹介されたが、柳氏はその時は参加することなど考えてもみなかったという。というのは、柳氏は母子家庭の長男で、決して生活にゆとりがあるわけではなかったからである。しかし、だんだん考えているうちに興味がわき、近所に暮らしていた祖父に相談したところ、「勉強したいことがあれば行けば良い」という後押しをもらったそうだ。そして、母親が農協からお金を借り、片道の旅費を工面してくれたという。日本全体でみれば高度経済成長の波に乗ってきた時期とはいえ、農家の暮らしのなかで海外研修の旅費を借金するのは決して簡単なことではなかったであろうと拝察する。

ラマト・ヨハナンへの派遣募集は既に終わっていたが、同年、キブツダリアへの派遣もあり、柳氏はこちらに参加することになった。

▼キブツダリアの地図
キブツダリアの地図

ラマト・ヨハナンへの参加者は、共同体・教育に関心のある北海道教育大学の学生だけだったが、ダリアのグループは参加者を全国から募集したため、国際基督教大学(ICU)や早稲田大学の学生もいたという。その中には、「キブツという共同体を学ぶ」というようなテーマを持っていた人よりも、外国に行ってみたいという目的での参加者が多かったようだ。「その比率は5:1くらいで外国へ行ってみたいという人の方が多かったかもしれない」(柳氏)。

ただ、メンバーの中には千葉大学出身の松村光子氏のように、教育に関する明確なテーマを持っていた人もいた。彼女は、研修の後もそのままキブツに残り、イスラエル人の配偶者を得た。配偶者は既に亡くなられたが、本人は今もキブツで暮らしているという。アラブ人とユダヤ人の共存教育を目指す活動をされているという。

大学3年を修了した後、4年目を休学してキブツ研修に参加することになるのだが、柳氏のイスラエルへの渡航ルート自体が興味深い。まず横浜から船でナホトカへ、ナホトカからハバロフスクまでは鉄道に乗り、ハバロフスクからモスクワまでは飛行機で移動する。モスクワからコルホーズを見学するために黒海沿岸のオデッサ(現在はウクライナの都市)へ飛行機で飛ぶ。その後は、船でブルガリアのバルナ、トルコのイスタンブール、ギリシャのアテネへ寄港し、アテネから飛行機で最終目的地のテルアビブへと向かったそうだ。

できるだけ経費を抑えるという目的もあったかと思うが、あちこち見学もしつつ、柳氏はこのルートに約1週間を費やした。この旅程の詳細を聞くだけでも興味深いのだが、なんと、イスラエルに到着して2週間も経たない6月5日の朝、第三次中東戦争が始まったのである。

第三次中東戦争は、5月にエジプトがシナイ半島での停戦監視をしていた国連軍を撤退させ、ナセル大統領がアカバ湾の封鎖を宣言したことが直接的なきっかけとなったといって良いだろう。アカバ湾とは、紅海の奥のシナイ半島の東側の湾で、イスラエル最南端の都市エイラットの港がある。

▼アカバ湾の地図
アカバ湾の地図

アカバ湾の封鎖ということは、イスラエルが紅海へ出る道を断たれることを意味する。当時のジョンソン米国大統領は、封鎖解除を求める50カ国による国際共同宣言を出す、とイスラエルに約束したが、実態は全く進展せず、危機を覚えたイスラエルは6月5日にエジプト、シリア、ヨルダンへ先制攻撃を始めた。いわゆる「六日戦争」と呼ばれる戦闘で、イスラエル側の優勢のままわずか6日間で終結に至る。結果、イスラエルはヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区とシナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領することになった。

戦争の詳細をここで振り返ることはしないが、柳氏本人は戦後生まれで戦争を体験したことはない。ところが、志に燃えた初めての海外旅行の目的地に着いた直後に戦争が始まったのである。事前に中東情勢の勉強をしたとはいえ、自分自身の研修が部屋と防空壕を毎日往復することから始まったわけで、その衝撃はどれだけだったかと思う。柳氏によれば、敵か味方か判別のつかない戦闘機が頭上を飛んでいたことを鮮明に覚えているそうだ。

当時は国際電話が簡単に使えるわけでもなく、日本との通信手段は手紙だけであった。毎日無事であることをひたすら手紙で故郷の母親に伝えたという。 幸いなことに、手紙は無料で出せたそうだ。

当時のイスラエルの人口は約260万人程度であり、開戦直後は世界中から祖国のために集まってきたユダヤ人青年男女でテルアビブの空港は溢れたという。当然キブツからも、若い労働力は兵士として従軍することになる。従って、外国からのボランティアは、食料を生産する大切な農業において、キブツの労働力不足を補い支える存在であったことになる。

旅費は自前だが、滞在中の一切の面倒をイスラエル側で見てくれる、というキブツ研修は、イスラエル側から見れば労働力の確保という意味があったことになる。当時の在イスラエル日本大使館は、「戦争には加担するな」という指示を日本人に出したという。しかし、キブツで生活をしている研修生たちは、生活の面倒を見てくれているキブツに対して何もしないわけにはいかない。彼らは身を隠すための穴掘りの手伝いをしたり、食堂の窓を毛布で覆って光がもれないようにしたりしたという。

幸いにして6日で平常に戻り、柳氏には果樹園の仕事が割り当てられた。グレープフルーツやレモンなどの収穫に携わったそうだが、それ以外にも荒れ地を耕作地にする開墾作業もあったという。午前中の仕事が終わると、午後はヘブライ語の授業や自由時間でホストファミリーと一緒に過ごしたりした。ヘブライ語の授業は2時間あり、午前中の労働で疲れた後なので、居眠りをしたことも多々あったそうだ。

休みの日には、あちこち出掛けたが、その殆どはお金がないのでヒッチハイクだった。日本国内ならともかく、言葉の問題がつきまとい、文化・習慣も異なる外国でのヒッチハイクとは、大変勇気があると感じるのだが、小田実のベストセラー「何でも見てやろう」が出版されたのも1961年であり、当時の若者にはお金の有無とは関係のない行動力に溢れていたのではないかと思う。

※後半につづく。

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新井 均(あらい・ひとし)

NTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu