相手の正体が一向に判らないままに、日本は戦後初めて「非常時」を迎えている。すべての国民が、明日の自分の命を慮らなければならない事態である。
COVID-19について判っていることは少ない。ヴィルスは生き物ではないが、生き物の中で生き物として機能する。その「生き方」がなかなか賢いといえる。感染力は極めて強い。同時に、致死率はそれほど高くないらしい。この点も、未だはっきりしないのは、例えばフランス、イタリア、スペインなどでの経験からすれば、10パーセント前後になるが、世界平均では3パーセント程度のようだからである。ここで、はっきりした書き方ができないのは、ヨーロッパの中でもドイツでは世界平均の3パーセント程度だし、日本では今のところ2.3パーセントで、世界平均からみてもかなり低いのである。つまり、こうした差が、ウイルスに生じた異型に由来すると説明することにも、困難がある。
このような経験から推定されることの一つは、不顕性の感染者が多数いる、という恐ろしい論点だろう。いわゆる<silent spreader>が広がっているのでは、という点である。当初私は、マスク騒ぎには、かなり疑問をもっていた。理由は簡単で、ウイルスは通常人々が身につけるマスクなどは、問題なく通過してしまうからである。私が学生の頃、ウイルスは通常「濾過性病原体」と呼ばれていた。病原体でも細菌類ならば確実に掬い取れる濾紙を、苦も無く通過してしまうのがウイルスである。感染者がウイルスを含んだ飛沫をまき散らさないためには、マスクはある程度機能するだろうが、単純な防護としては、医療用の極めて頑丈なマスクを除けば、あまり意味がないのでは、と考えていた。しかし、不顕性の感染者が多数あるという状況では、飛沫感染を防止するために、マスクは必須の対策の一つとなる。自分が知らず知らずのうちに他人に感染させる感染源とならないために。
判らないことだらけの中で、一つだけ絶対確実にやるべきことがある。それは、感染の展開網を断つことである。感染網の構成要素は一人ひとりの人間である(ペットがそこに入るとしても、今のところ決定的な要素とはならない)。したがって、感染網を無力化する唯一の方法は、一人ひとりの繋がりを断つことにあるのは、明白である。それがいうところの「ロックダウン」であり、現在の日本では「自粛要請」である。これを、「あまり意味ないでしょ」と嘯いて街に繰り出す若者にテレビで出会ったときには、余りのことに言葉を失った。「自粛要請」では無意味で、もっと強制的でなければ、というのなら、それは真に正しいが。
もう一つ、厄介な問題がある。不顕性の感染者が多い、ということの唯一のメリットは、社会免疫に至る時間が短いことである。アメリカでは、すでに抗体検査に踏み切るか、という議論が高まっていると聞く。それはちょうど感染症の強制ワクチン接種の問題に似ている。強制接種は社会防衛のためには、決定的に重要である。しかし、その裏に、何人かはワクチン禍で思いもかけぬ障害が残る、というような犠牲が生まれる。現在の強制接種では、その可能性は極めて低いが、それでも個人差も含めて、絶対起こらないとはいえない。日本では、そうした場合の金銭補償の制度があること自体が、可能性の存在を暗示している。
今度の場合、社会防衛に役立つほどの社会免疫ができるまでに、どれだけの犠牲者が生まれるか、ということは、決して無視できることではない。しかし、ドイツやスウェーデンでは、大まかな政策としては、速やかな社会免疫を達成しようとする方向で進めてきた印象がある。
国際比較で、一つ教訓的なのは、かつての経験がやはり重要だ、という点である。例えば、韓国では、人口比での検査終了者の数は圧倒的に多い。日本の百倍以上になる。これは、MERSが韓国で最も猖獗を極めたことの経験が、きちんと生かされているからに違いない。日本は、SARSもMERSも深刻な事態に至ることから免れた。そのことが、今回はマイナスに働いている。
なかなか出口が見えない状況だが、こうした「非常時」を乗り越えたときに、新しい社会が創成されていく可能性も期待できないわけではない。情報技術の社会的活用などに関して、すでにそのような芽も見えないわけではない。それを望みながら、暗い一日一日を何とか乗り切って行こう。
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登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。