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様々なコンテンツ部品をネットワーク上にセンス良く配置した「体系」全体が一つの作品と認識される時代に

2020.09.03

Updated by Shigeru Takeda on September 3, 2020, 10:32 am JST

インターネットをシンプルに説明すると「ある程度の量のデジタルデータを仮想的な小包(Packet)に包んで、TCP/IPというプロトコル・スタック(通信のための取り決めの集合体)に従って伝送すること」になる。つまるところインターネットは、手続きを記述しただけの仮想的なネットワークに過ぎない。従って、物理層はなんでも良い。既にエンドユーザーから見れば、電話線や光ファイバーすら不要になってきており、無線が現在のインターネットの主流になっている。

電話は、音声を電磁波に変調して物理的な電話線(ツイストペア・ケーブルなど)を通じて伝送し、受け手が復調することで音声が聞ける仕組みとしてスタートしたが、音声データをインターネットで流す、ということは、電話線を使わずに通話というサービスを提供できるようになったということに他ならない。

少々ややこしい物言いになるが、これは、電話がインターネットという仮想ネットワークの上に乗るアプリケーション(またはコンテンツ)の一つに成り下がったことを意味する。電話に限らず、新聞的コンテンツ、テレビ的コンテンツ、ラジオ的コンテンツなども、全て仮想的なサービスしてインターネットの上に乗せることが可能になった。この現象の、最もわかりやすくかつ象徴的なサービスが、2005年に登場したYouTube(=あなたのテレビ)だろう。

これに加えてコロナ禍は、メディアに限らず、オフィス・学校・展示会・舞台のような、実空間の施設として認識していたものすら、インターネット上のコンテンツ部品にしてしまった。例えばテレワークでのウエブ会議は、オフィスという施設の(デジタル)コンテンツ部品化の象徴だ。実空間(情緒的で感覚的な空間)は、制約(=今回はコロナ禍がこれを作った)を与えれば論理空間である程度代替可能なのである。

今後は、食事・運動・睡眠のような、身体的感覚それ自体が価値になるもの以外は全て仮想化される可能性が高い。ひとたびコンテンツ部品化されれば、ユーザーはそれらを「等価に並列された」ものとして眺めることになる。新聞と学校をディスプレイ越しに比較してどちらを使おうかと悩む、というような実空間ではナンセンスなことが、コンテンツ部品の世界ではもはや日常になったことに着目しておくべきだ。

「新聞の未来はどうなるか?」といった類いの書籍がいまだに販売され、それなりに売れているらしいことから類推すると、新聞やテレビなどの伝統的なメディアは、自らが提供しているサービスが既に「格落ち」していることをいまだ認識していない可能性があるが、残念ながら全てのメディアの未来は「インターネット上のコンテンツ部品に成り下がる」ということで確定・決着している。これは、デジタルデータに再帰性という性質があるからだ。

デジタル化するということはどのようなコンテンツも、一旦(デジタルデータという)原材料の状態にすることを意味する。どんなものにでも化ける準備が整った、ということだ。しかも、どのような状態として再帰的に登場させるかは、ユーザーに決定権がある。例えば書籍が一旦デジタル化されると、PCでそれを眺めているAさんとスマホで読んでいるBさんでは、厳密な意味では別のものを見ていることになる。

デジタルの最大の特徴は、この柔軟性と仮想性にある。多くのユーザーは、元の書籍とデジタル化された書籍をまったく別のものとは認識してはくれない。極めて利便性の高い代替的な手段として歓迎するだけだろう。手紙に説得力があることがわかっていてもメールで済ませてしまう、というのと同じである。

伝統的メディアは、自らがコンテンツ部品に格落ちしたことをなかなか認めようとはしない。しかし、主導権は既にユーザーに渡っているのだ。ソーシャルメディアのマイページを基盤にして、自分なりに様々な部品を組み合わせ、ユーザー自身が作ったコミュニケーション・データをも統合し、独自のメディア環境を勝手に作る時代になった。その意味において、ソーシャル「メディア」という言葉は少々不適切かもしれない。あれは一種のユーザー専用デジタルダッシュボードだ、と考えるべきであろう。

また、「仮想化」はバーチャル(virtual)という言葉の語感から「擬似的であり、本物ではない」というニュアンスを感じる人が多いかもしれないが、これも間違いだ。「機能それ自体のより本質的な部分だけを忠実に再現する」が仮想化の本来の意味である。つまり、コンテンツ部品は、仮想化されるからこそ価値を増すのだ。メカニカルコストの削減は原価率の低減、利益率の向上、そして環境負荷の低減に寄与するだろう。仮想化は時代の要請でもある。

では、自らがコンテンツ部品に成り下がった伝統的メディア企業の将来が極めて暗いのだろうかと問われれば、そうとも言い切れない、のである。これをレシピ風に説明すると以下のようになる。

0)
自身が所有するコンテンツをまずはとりあえずデジタル化する(このとき、デジタル化する前のメディアはとりあえず温存しておく)

1)
自身が所有するコンテンツ部品だけで作品を作らねばならない理由はない。自分のものとして利用可能な他者(社)のコンテンツ部品やプラットフォームが山のようにある。

2)
作品とは、たくさんのコンテンツ部品をネットワーキングした編成物として表現される時代になった。

3)
そうなると、ネットワーク上の編成能力、ネットワークのデザイン力の勝負になる。

4)
伝統的メディアのコアコンピタンスが編成力・編集力と考えると、その力を行使する対象(=コンテンツ部品)が単に広がっただけ、と考えられる。これはむしろチャンスだ。

5)
ネットワークを構成する部品の一つとして、古典的なアナログメディアを(後から)付け加えてみる。

6)
その上で、ネットワーク構成を微調整し、メディアビジネスをリ・スタートする

ポイントは、2と5にある。特に、デジタルでスタートした新興勢力は、5を所有していないことをハンディキャップと考えるらしい(歴史が浅いことを負い目と感じている米国という国とよく似ている)。実際、インターネットで成功した企業が雑誌を発行したがるのはこれが理由だが、多くの場合それは失敗する(amazonによるWashington Postの買収のような形が最も現実的で手堅いはず)。

5は、残念ながらもはやメインディッシュではなくなったが、スパイスとしての存在感自体はさほど小さくはならない。デジタルが最も苦手なのがフィジカル(身体的)な価値の提供だからだ(全くできないわけではないが、多くの場合コストが桁違いに跳ね上がる)。もう一つ付け加えるとすれば、歴史的事実の積み重ねとその信頼性である。

例えば、先日惜しまれつつ休刊した「アサヒカメラ」(朝日新聞出版発行。6月19日発売の7月号が最終号)が、もし10年くらい前に「たくさんのコンテンツ部品をネットワーキングした編成物」として再構成されていたならば、プロジェクト全体としては堅実に成長していただろう。そして、その時の雑誌自体の部数は半減していたとしても、欠かすことのできないスパイスとしてそれなりの存在感を示していただろう。何十年にもわたってこの雑誌の愛読者で、かつその傍らでインターネットでメディアを作り続けてきた自分自身の実感なのだから、間違いないはずだ。

ただし、これらは「もしもメディアがビジネスならば」という前提での話だ。アサヒカメラ自体が、実は文化的な事業だったのだとしたら、この雑誌はとても豊かで楽しい一生を過ごせたように思える。雑誌というものには、読者と共に生き、読者と共に消えていくからこそ雑誌たり得る、という側面もある。これは、自動車雑誌である二玄社の「NAVI」の休刊に際しても感じたことである。文化的な事業であったとすれば、文字通り「天寿をまっとうした」ともいえるのではないだろうか。

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竹田 茂 (たけだ・しげる)

新潟県上越市出身。日経BP社にてBizTech(現在のnikkeibp.net)の立ち上げを皮切りに同社の様々なインターネット事業の企画・開発を統括/プロデュース後、2004年にスタイル株式会社を設立。主にB2B分野にフォーカスしたWebメディアを創刊・運営。早稲田大学大学院国際情報通信研究科非常勤講師(1997-2003年)。著書に『会社をつくれば自由になれる』(インプレス、2018年)など。