WirelessWire News Technology to implement the future

by Category

つながりのテクノロジーはまたしても我々を引き裂く

2025.05.21

Updated by yomoyomo on May 21, 2025, 14:51 pm JST

歴史家のダニエル・イマーヴァールが、ニューヨーカー誌に寄稿した「テクノロジーによる「注意力の危機」を煽る“エリート”たちの本音」に書くように、ニコラス・カーの『The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains』(邦訳は『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』)は、インターネットが我々の集中力と熟考する能力を奪っている、つまりは「インターネットが我々の能力を退化させる」ことを正面から論じた最初期の本です。

発表当時、この主張には多くの反論が寄せられました。これは『The Shallows』の前段にあたるアトランティック誌への寄稿文のタイトル「Googleは我々をバカにする?」にも原因があったと思いますが、15年前の当時は、インターネットは我々に力を与えてくれるという楽観的な見方が今よりずっと強かったのです。

エズラ・クラインが、『The Shallows』を「インターネットを嫌いそうな人たちに大うけだった本」とずっとシカトしていたが、刊行から10年になる2020年にようやく読んでしっくりきた話を書いていますが、カーはインターネットがもたらす恩恵に背を向け、問題を論う反動的な論者とみる人も少なからずいました。

しかし、「自動化は我々をバカにする」と論じる『The Glass Cage: Automation and Us』(邦訳は『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』)、そして『Utopia Is Creepy: And Other Provocations』(邦訳は『ウェブに夢見るバカ ネットで頭がいっぱいの人のための96章』)を経て、ソーシャルメディアが我々の自己、並びに社会に関する感覚をいかに歪めてきたかを論じる最新作『Superbloom: How Technologies of Connection Tear Us Apart』には、かつてカーの著作に寄せられたような感情的な反発はあまり見られないように思います。

ソーシャルメディア、特にソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が利用者に害をもたらすことは、もはや常識、前提でしかない2025年の現在、カーの主張を反動視する人はいないでしょう。むしろワタシなど、今更ソーシャルメディアを俎上にあげるのか、と正直思ったくらいです。ただそれは、今から10年前の2015年に『角川インターネット講座5 ネットコミュニティの設計と力 つながる私たちの時代』に「ソーシャルメディアの発生と進化」という文章を寄稿したワタシ自身にも跳ね返ってくる問題です。15年前はもちろん、10年前でも、ワタシは今より明確にソーシャルメディアを肯定的にとらえていました。

カーの新刊『Superbloom』の書名は、2019年にカリフォルニア州のウォーカー・キャニオンで大量のポピーが咲き乱れた現象に由来します。当初は地元住民だけがオレンジ色のポピーを楽しんでいましたが、数万人ものフォロワーを持つインフルエンサーが自撮り写真を投稿するや、ハッシュタグ「#superbloom」がバズります。しかし、写真を撮るために道路を渋滞させるほど多くの人が押し寄せた挙句、環境保護区域の花々が踏みつけられるなど自然破壊が問題となり、交通警官が負傷する事態となると、今度はポピーの写真の投稿者に激しい非難コメントが寄せられました。

ワタシとしては、ここまで読んだ青土社の編集者が、『Superbloom』の邦訳の書名を『狂い咲きバカ』にしないことを祈るばかりですが、冗談はともかく、カーはこの一件について「我々の熱狂的で、茶番的な、情報飽和の時代の縮図を提供した」と評しています。ただ、本書はソーシャルメディアのユーザーや、その提供者であるビッグテックを貶めて留飲を下げる本ではなく、19世紀の電報に始まる電子メディアの歴史を紐解きながら、新しい「つながりのテクノロジー」が常に(戦争の根絶といった)楽観的な未来を期待させながら、それが実現しなかったことを説く射程距離の長い本になっています。

1912年4月、タイタニック号がニューファンドランド沖で氷山と衝突したとき、救難信号は確かに発信されたものの、近隣の船舶が対応しようとした努力は、アマチュア無線家による憶測や噂に基づく虚偽の発信によって妨げられ、それが1500人もの犠牲者につながります。そして、それが通信事業者に免許を与える一方、アマチュア無線家を短波放送から締め出す電波法の制定につながった話など面白い歴史の逸話がいろいろ読めますが、それでも本書の主眼が現代のソーシャルメディアがあるのは間違いありません。

タイタニック号の事例は、20世紀初頭に起きた情報過多の一事例ですが、より多くのコミュニケーションがより良い理解をもたらし、それが社会問題の解決につながる、というコミュニケーション技術への楽観的な期待は、ずっと間違っていたとカーは断じます。カーはソーシャルメディアを考える上で、社会学者のチャールズ・ホートン・クーリーの「鏡に映った自己」という概念から出発しながら、常に次の刺激を待ち望みながらスクリーンを見続けることを要求されるソーシャルメディアにより、生活がメディア化され、かつてはかろうじて空間と時間の特別性を維持していた社交のあり方もアルゴリズムによる無秩序なバイブスに委ねられ、自分自身や他者を断片的で抽象的なものとして認識する「ミラーボールの自己(The Mirrorball Self)」に変容したと本書は説きます。

コミュニケーションのスピードと量が上がりすぎると、それは建設的でなく破壊的なものに変わり、その結果、多すぎるコミュニケーションは、人間関係に理解ではなく誤解を、信頼ではなく不信を、調和ではなく争いを生むと、カーは「コミュニケーションの悲劇(The Tragedy of Communication)」を警告します。

しかし、ソーシャルメディアがもたらす恩恵は、それがいかに現実的なもので、歓迎すべきものであっても、デジタル技術がいかに深い形で社会のダイナミクスに変化をもたらしているかという点から目を逸らすべきではない。心理学者や社会学者が人間関係のもろさについて発見してきたこと――相違点の連鎖、人間関係の緩慢でもろい展開、情報開示とプライバシーの間の緊張関係――は、人間の精神がいかに新しいメディア環境に適応していないかを明らかにしている。つながりが増え、メッセージが氾濫するにつれて、人間関係は希薄になり、不信感が広がり、反感は高まるのだ。

カーは、投稿や再投稿の進行を遅らせるよう既存のプラットフォームを再設計する「摩擦デザイン(frictional design)」により「望ましい非効率性」を導入する考えを推していますが、これだけ摩擦のない効率的なソーシャルメディアが社会(心理)に深く浸透してしまった以上、その解決策を取り組むには遅すぎることも認めます。

カーは、1912年のタイタニック号の沈没事故を受けた電波法の制定のような、政府によるインターネットについての合理的な規制システムの開発が、インターネットが学術的なものから商業的なネットワークへと移行し始めたばかりだった1990年代初頭に行われるべきだったと考えています。ユーザーが投稿したコンテンツに対するプラットフォーム企業の免責条項を定め、「インターネットを生み出した26ワード」とも言われる通信品位法230条の評価などで、カーの規制論にワタシは合意しませんし、どのみち「自由な市場こそが成長と繁栄の最良の保証である」ともっとも強く信じられていた当時には無理だったでしょう。

カーは、「私たち自身を変えるのに、まだ遅くはないかもしれない」という言葉で『Superbloom』を結んでいますが、実は若年層に対するソーシャルメディアの利用規制は昨年から今年にかけて一部の国で本格化しつつあります。本書でも、カーはソーシャルメディアが「反共感マシン(anti-empathy machine)」であり、自己認識を低下させるだけでなく、人間の感情を読み取ることで相手に共感する能力を抑制することを指摘していますが、これは若年層にとって大きな問題です。

若年層のソーシャルメディア(やスマートフォン)の利用規制を動かしたのは、昨年欧米で大ベストセラーとなったジョナサン・ハイトの(なぜ未だ邦訳が出ないのか理解できない)『The Anxious Generation: How the Great Rewiring of Childhood Is Causing an Epidemic of Mental Illness』、そして今年Netflixで配信が開始されるや世界71カ国でストリーミング1位となったドラマ『アドレセンス』の影響が大きいでしょう。

『The Anxious Generation』については正反対の議論もメディアに登場しましたし、それに対して著者のハイト自身も反論していますが、『アドレセンス』ともども、思春期の子を持つ親世代を突き動かすだけのインパクトがありました。なお、そのハイトもカーの『Superbloom』に賛辞を寄せています

さて、MetaのCEOマーク・ザッカーバーグが、先月反トラスト法訴訟裁判における証言の中で「ソーシャルメディアは終わった」と発言したと報じられ、話題になりました。

ザッカーバーグの証言は正確には、ソーシャルメディアは従来のメディアにより近いものに姿を変えており、「ソーシャルメディアは、以前ほどソーシャルではなくなっている」であり、FacebookにしろInstagramにしろ、タイムラインに知った人の投稿を表示されなくしたお前が言うな! と呆れられましたが、彼の発言は後悔や反省に起因するものではまったくなく、飽くまで連邦取引委員会による反トラスト法訴訟裁判を有利にするためのものに注意しなければなりません。

ただ、ザッカーバーグの真意とは関係なく、ワタシはその少し前に読んだ「4chanの“終焉”と、インターネットに息づくその負の遺産」の以下のくだりを彼の発言の報道から連想してしまいました。

4chanのようなサイトが再び現れることは、おそらくもうないだろう──それはおそらく、とてもいいことだ。だが、4chanは本質的な目的をすでに果たしていた。世界を噛み砕き、自らの姿に変えて吐き出すという目的を。いまやXからFacebook、YouTubeに至るまで、あらゆるものがどこか4chanのように感じられる。そう考えると、このサイトがなぜいまだに存在し続ける必要があったのか、不思議に思えてくる。

数年前には、InstagramやFacebookをはじめ皆が「TikTok化」を目指す「ソーシャルネットワークの黄昏」と言いたくなる時期がありましたが、その結果が「あらゆるものがどこか4chanのように感じられる」地点だったというのは皮肉です。

しかし、先月末にドワルケシュ・パテルのポッドキャストに出演したマーク・ザッカーバーグは面白いことを言っていて、この人はすごいと再確認しました。

平均的なアメリカ人は友達が3人未満で、しかし、平均的な人はもう少し多くの友達を求めている。15人とか、そんなとこでしょうか、と彼は語ります。Metaの膨大な個人データを活用し、残る12人分の特注AIボットを作り、友情の需給バランスを満たせます、という意図でしょう。

Metaは今年のはじめ、FacebookやInstagramに「AI生成のアカウント」を導入したことで利用者から猛烈な批判を浴び、AIアカウントを削除しましたが、少なくともザッカーバーグはまったく懲りていないようです。

ニコラス・カーもこの報道を受けて、「デジタル・シミュレーション時代の友情」という文章を(おそらく)ノリノリで書いています。

思えばカーはかつて、Metaのメタバース構想のメッセージを(底意地悪く)読み解いていますが、これはメタバースの新バージョンの売り込みだとカーは解釈しています。

元のメタバース構想は失敗に終わりましたが、生産コストが安く、供給は無限で、常にオンラインな生成AIのチャットボットを利用すれば、バーチャル化社会というMetaのビジョンを満たせるじゃないか、とザッカーバーグは思い直したのかもしれません。テクノロジーが生み出した孤独の危機に対する明白な解決策は、やはりテクノロジーというわけです。

しかも、Metaの「友達工場」から生まれる友達は、地元で手に入るようなありふれた存在に限定はされません。わずかな追加料金を払えば、有名人の友達だって作れます。ウォール・ストリート・ジャーナル紙の報道によれば、Metaはクリスティン・ベル、ジュディ・デンチ、ジョン・シナといった著名人と声の使用権で1億円を超える契約を結んだといいます。

ザッカーバーグの新たなメタバース、ボットバースはソーシャルメディアの集大成にして、ソーシャルメディアからの脱却だとカーを見ます。「友人や家族とつながる」ことをお題目にしてきたのが、現実の友情をAIによる複製に置き換えようとしているのですから。孤立した人ほどより信頼できる消費者になることを企業は知っているが、友情を収益化するには、まずは友情を解体しなければなりません。実にザッカーバーグは賢い。悪い意味で。

ここにいたって、『Superbloom』のメッセージとMetaのAIボットによる新メタバース構想が重なります。

Facebookのニュースフィードで、ザッカーバーグが「摩擦のないシェア」と呼んだものが紹介されたとき、私たちは摩擦こそ共有の本質であることを学んだ。いや、学ぶべきだった。労力、時間、気遣いの投資から解放されれば、共有はもはやすべての意味を失う。それは単なる伝達に過ぎなくなる。チャットボットが提供する摩擦のない友情もまた、他者に自分を合わせ、異なる存在を受け入れる余地を作る必要性をなくすことで、同様に空虚なものになるだろう。なぜなら、パーソナライズされたチャットボットは、プラットフォームが収集した私たちのデータによって定義された、私たち自身の特徴や欲求に基づいて作られる私たちの分身だからだ。彼らは様々な声で私たちを表現してみせる。それは孤独を和らげるどころか、増幅させる処方箋のように思える。

たとえ、パーソナライズされたチャットボットの友人の声がいくらジュディ・デンチに似ていても、それはあなた自身の声の嘲笑的な反響以上のものにはならない、とカーは結んでいます。

ザッカーバーグの件の構想は、ソーシャルメディアやAIの交点や相似点を考える上でとても有益な事例に思えます。Fast Companyの今月の記事にもあるように、中毒性、誹謗中傷、分断など多くの問題を引き起こしたソーシャルメディアの失敗を教訓に、生成AIでその過ちを繰り返さないための責任ある利用が求められています。

この記事でリンクされているジョナサン・ハイトらのグループによる調査における、Z世代の半数近くが、TikTok(47%)、SnapChat(43%)、X(50%)などはじめから発明されなければよかったと考えている、という結果はなかなかに強烈です。

ソーシャルメディアの二の舞にしないために、悪用されうる可能性も現実的に見えてきたAIの健全な活用のため、政府による規制、社会的な対話、第三者評価機関の三つの選択肢がこの記事では挙げられていますが、どれも簡単ではありません。それを考える上でも、『Superbloom』は読む価値があるとワタシは考えます。

少し前にニューヨーカー誌に掲載されたビル・ゲイツのインタビューで、「正直なところ、ソーシャルネットワーキングが生まれるまで、わたしはデジタルエンパワーメントを完全によいものだと思っていました」「いまになってみれば、ソーシャルネットワーキングに対して、それからいまはAIに対しても考えが甘かったと思います」と語っているのは、彼もまたこの二つの分野の相似性と危険性を理解しているからでしょう。

WirelessWire Weekly

おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)

登録はこちら

yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

RELATED TAG