この目で見たイスラエルの今(1)イスラエル人の頭の良さの秘密は週末の過ごし方にある?
2017.08.09
Updated by Hitoshi Arai on August 9, 2017, 10:49 am JST
2017.08.09
Updated by Hitoshi Arai on August 9, 2017, 10:49 am JST
前回まで、主にCyberTech2017で見つけた、独自性のある商品・技術を持つスタートアップ企業を紹介してきた。一旦その連載を中休みとして、今回は、技術以外の「この目で見たイスラエル」を紹介してみたい。というのも、投資やベンチャーの分野ではイスラエルがある種のブームであり、例えば、サムライインキュベートなどのセミナーや発信で、「イスラエルのイノベーション」の話題を目にする機会はとても増えている。しかし、イスラエルの普通の人々の生活や、特に多くの人が心配をする「危険」の実態が本当はどんなものなのか、を知る機会はあまり無い、と思うからである。今回、安息日に見たこと、と、実際に見たシェルターについて紹介したい。
イスラエルの一週間は日曜日から木曜日までで、週末が金曜・土曜であることはある程度知られているかと思う。その週末で、金曜日の日没から土曜日の日没、までの期間をシャバットと言い、労働をしてはならない、とされている。警察や消防、軍隊はもちろん安息日だからと言って休むことはないが、そのために、わざわざ法律で安息日免除を決めている。無宗教である私の感覚からすると少し驚きなのだが、聖書に書かれた決まりと法律が同じレベルなのである。
私自身は聖書を読んだことがないので、文春学芸ライブラリーの山本七平著「聖書の常識」を参照した。旧約聖書は39の本からなる全書であり、最初の5書が、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、で、律法(トーラー)と言われる。山本七平によれば、聖書の中でも特にこの5書は「神と人間との契約」であり、人間が生きてゆくための規範、戒め、なのだそうだ。法律の逆さまの語順である律法という言葉にはそれなりの意味があるのだろうが、やはり「法律のようなもの」と考えれば良いらしい。それくらい、聖書に書かれた決まりごとには重みがあり、それが生活の中に組み込まれている。
繁華街でも金曜日の午後からは店は徐々に閉まり、土曜日の午前中は街中から人が消える。
1月に訪問した際、金曜の夜でも営業しているテルアビブ港のレストランに食事に行ったのだが、そのレストラン以外のすべての店・ビルは真っ暗であり、本当にこのエリアに営業している店があるのかどうか不安になった。
試しに、翌土曜日の午前に、テルアビブでも最も早く開発が進んだ地区、Neve Tzedekの近くの、駅の跡地に作られたハタハーナというショッピングセンターに行ってみたが、本当に誰もいない。ホテルから歩いて行ったのだが、道すがらも犬の散歩をしている人2人に出会っただけだった。
▼誰もいない、安息日午前中のハタハーナの中庭
滞在したホテルの中でも、例えばエレベータが4基あると、うち1基はSabbathのマークがついていて、安息日には各駅停車で勝手に動く。エレベータを呼ぶための「ボタンを押す」ことも、「行き先の階のボタンを押す」ことも「労働」なので許されない。週末にホテルに居るユダヤ人(余りいないとは思うが)は、「労働」をしなくても良いようにこのエレベータを待つ。無論、外国人は残り3基を使って、普段通りボタンを押して移動すれば良い。
ホテルは営業してはいるが、週末は安息日とは無縁の、おもにアラブ人にスタッフが全員入れ替わる。レセプションスタッフも替わる。レストランのシェフも変わるので、朝食のブッフェの内容も平日とは多少異なってくるため、私のような外国人にとっては違うものが食べられて嬉しかった。週末のスタッフ入れ替えは、ある意味では社会全体で雇用機会を増やすという意義もある。一方で、ホテルの経営者にとってはアラブ人の方が余り文句も言わず賃金も低めというメリットが有り、平日もアラブ人を雇用する傾向が出てきたようだ。ユダヤ人の仕事の機会が奪われるという問題も出てきた、と聞いた。
ではこの安息日には、一体イスラエルの人々は何をして過ごすのだろうか? 敬虔な信者の場合、歩いて行ける距離にシナゴーグ(集会場)があれば、男性はシナゴーグに行って礼拝や勉強会をする。いかない場合は家でお祈り、読書、勉強をする。さほど宗教に縛られない人の場合は、家族が集まって、時には親しい友人を招いて、語り合い食事をする、というのが一般的らしい。過ごし方はその人の信仰の程度によるので、ドライブをOKと考える人もいるそうだ。いずれにせよ、普段よりおしゃれをしたり、食べたかったものを食べたり、ということも含めて、生活にメリハリをつけるという形になっているのは意味のあることだと思う。
面白いのは、女性はシナゴーグに行かなくても良いことだ。イスラエルの知人に聞いたところ、神様が最初に作ったのが男性で、その肋骨から作ったのが女性、つまり、後のほうがより「完成された作品」ということで、義務化しなくても女性は祈りに近い生き物である、ということだと言っていた。女性がシナゴーグに行く場合は、二階に着席する。二階から一階にいる男性がきちんと祈りをするか見守るような立場なのだそうだ(別の知人は、男女で席を分けるのは男性が気を取られて祈りに集中できないことがないようにするためだと言っていた)。性別に関わらず兵役義務のある国だが、神から求められるもの(役割)は男と女で異なる、というのも興味深い。
シナゴーグは教会ではなく集会所と訳されるが、人々が集まってお祈りをする、と言う意味では機能としては教会に似ている。ただ、私が見た限りでは、キリスト教やイスラム教の教会と比べて建築物として質素である。教会というと、建物自体がシンボリックに大きく、美しいステンドグラスや装飾がほどこされているイメージがあるが、そうではなかった。
かつてはユダヤ教も、イエルサレムに神殿があった。現在はイスラム教の「黄金のドーム」と呼ばれる場所である。しかし、それをローマ軍に破壊されて以来、ラビという学者を中心とした学習を基本とする宗教となった。シナゴーグは学習をし、祈りをする場所なのである。学習の場であり、祭儀を行う場ではないので、建築物や場の雰囲気による荘厳さとか権威を必要としないのではないだろうか。
シナゴーグで学ぶものは、最も重要なトーラーを中心とする聖書、専門家であればタルムードという文書だ。タルムードを山本七平は「施行規則」という言い方をしているが、私の友人は、there are "do" and "don't do" commandments according to the bibleと説明してくれた。安息日には労働してはならない、もその1つであり、豚肉・貝・海老を食べない、というのもその1つらしい。しかし、私の知り合いには海老は食べる、と言うイスラエル人もいる。どうやら、律法とはガチガチの決まりではなく、それぞれの時代・人に合わせて解釈され、人々の生活規範として活かされるらしい。つまり、学習とは、そこに書かれていることをどのように解釈するかと議論することなのだ。
私は、これがイスラエルの人々の頭の良さの秘密ではないか、と思っている。つまり、週に一度、神との約束事として聖書を読み、議論し、考える、のである。キリスト教徒も週に一度日曜日に教会にミサに行くことを考えると、聖書や神に接する頻度は同じかもしれない。しかし、キリスト教の場合は、牧師の説教を聞き、皆で賛美歌を歌うなど、受け身であったり、Social Event的要素が見られる。一方ユダヤ教の場合は、同じ週に一度であるが、それぞれが聖書を読み、解釈を議論し、考えるのだ。日々けじめのない生活を送り、週末はテレビのお笑い番組でのんびりしてしまう、頭を使わない日本人との差は、埋めようもなく大きいのではないだろうか。
1991年の湾岸戦争の後、自衛のためのガイドラインが作られ、新たに建築する建物にはMerkhav Mugan(Protected Zone)というスペースを併設することが義務付けられた、と聞いた。核シェルターではないが、通常兵器による攻撃に耐えられる「避難場所」である。公共建築だけではなく、個人の家やアパートも対象である。各家庭には、ガスマスクを含むa weapons-of-mass-destruction (WMD) protective kitというものが配られている。
今回、6月末に出張し、イスラエルフィルハーモニー交響楽団の演奏会を聞く機会があった。テルアビブの中心部にあるThe Lowy Concert Hallという素晴らしいホールだった。そのホール前が広大な空間になっていて、その地下は数階建ての駐車場になっている。エスカレータで下りてゆくとき、横を見ると、3メータ以上の厚みの天井があった。ここは千人規模で避難できるシェルターを兼ねている。このような駐車場兼シェルターが都市の地下至るところに作られている。国民全体分のスペースがあると聞いた。スペースだけではなく、一定期間滞在出来る発電能力と水が用意されている。
また、ホテルの地下にもシェルターがある。この写真はホテルの階段に続くドアであり、シェルターのマークがある。行ってはみなかったが、そこには階段で行けるというサインだそうだ。
果たしてこれは過剰だろうか? 我々は、これは中東だから、と言えるだろうか? 日本で公共の建物の駐車場にシェルター機能を備えよう、とすると、一部の人やメディアは、政府は戦争に向かうのか、と騒ぐかも知れない。しかし、北朝鮮がミサイル発射実験を繰り返す現在、万が一彼等が誤射した時、我々には何の備えもない。憲法により攻撃能力を放棄していれば、他者からも攻撃されないだろう、と信じるのは単なる思考停止にすぎない。
ショッピングセンターでも、必ず入り口に金属探知機を持つ警備員が立ち、カバンを開けて中をみせることを要求する。もちろんテロ対策である。最初は驚いたが、それだけの警備があるということで、ショッピングセンターの中にいる時には、何の不安もない。
初回にも書いたが、多くの人がイスラエルと聞くと「危なくないの?」と言う。中東という地政学的な状況からくる当然の反応とは思う。しかし、何度もイスラエルに行き、これだけの危機管理が出来ていることを実際に体験し、翻って何の備えもない平和な日本に戻ってくると、イスラエルのほうがよほど安全だ、と毎回思う。安全も安心も、他者に依存せずに自らの努力で作り上げるものである、ことを、我々はもう少し自覚しなくてはいけないのでは無いだろうか。
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登録はこちらNTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu