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中東 戦争 イメージ

キブツを体験した日本人 中東戦争に遭遇した柳敏昭氏(後編)

2019.10.28

Updated by Hitoshi Arai on October 28, 2019, 16:59 pm UTC

キブツには日本からだけではなく、アメリカやヨーロッパからも多くの研修生が居たようで、キブツ滞在はまさに異文化に触れる機会でもあった。彼らは3カ月ほどの滞在で、個人として来ていたようだ。

日本人は、キブツ協会の派遣事業という形でグループで来ていたので、受け入れる側としてもしっかりと対応してくれたという。ホストファミリーが割り当てられたのも日本からの若者だけで、ヨーロッパやアメリカからのボランティアには、そういったサポートはなかったようだ。

後にそのうちの一人でノルウエーのオスロ大学から来ていた青年と仲良くなって、柳氏の次の1年が決まることになるのだが、まずはキブツ生活の話に戻ろう。

果樹園の仕事以外に、柳氏はキブツの中核機能である食堂での配膳や皿洗いの仕事もした。 キブツの特徴の一つは「子供の家」である。同年齢の子どもたちが集まって、メタペレット(ヘブライ語で保母さん)の元で寝食を共にする。子供の面倒を一日中見る保育園のようなものである。もともと、女性を家事から開放し、男女の別なく働けるようにするために、大切な子供はキブツ全体で共同で育てる、という仕組みである。

夕方の2、3時間は親とともに親の家で過ごす時間はあるが、その後は再び子供の家に戻って寝る。この仕組みは、キブツメンバー自身の中でも常に賛否両論があるようだ。ある者は、親と子供は一緒に過ごすべきだと考え、ある者は、自立心を育てるためにも子供の家は重要だという。このような議論は昔からずっと続いていて、メンバー同士が議論を続けながら共同生活を作り上げていくのがキブツの最大の特徴である。

柳氏は、教師を目指していたこともあり、午後の自由時間には子供の家の仕組みや実態を研究し、帰国後、大学の卒業論文にまとめたという。性別の差なく能力を活かして働くために必要なインフラとして、子供の家の仕組みは、当時研究対象となった理想社会の一部だったのではないだろうか。ただ、国全体も発展途上で、村も決して豊かではない時代だったので、子供を共同で育て、両親が働くという仕組みが狙い通りに機能したという側面もあるだろう。

今は廃刊になっている三修社の本で、中津川由美氏の「こんにちはイスラエル」という文庫本が手元にある。彼女は1985年にキブツ・バルカイで生活し、その体験記を本にまとめているのだが、そのときは、個人の欲求(私有財産の保有)や労働に手を抜く、といった問題も顕在化し、全体最適と部分最適の相反について議論されるようになったと書かれている。

柳氏のキブツでの1年があっという間に過ぎ、通常であれば帰国する時期を迎えることになるが、彼はもう少し海外の体験を重ねようと考えた。それは、先に言及したノルウエーからのボランティアと仲良くなったことも関係する。

このノルウエーの若者は、なんと日本語が話せた。彼の父親がキリスト教の宣教師であり、彼は中学生まで和歌山県で暮らしたために日本語が話せたのである。彼は3カ月で帰国したのだが、連絡先を聞いていたため、柳氏は「もう少し勉強を続けたいので協力してほしい」という手紙を送った。

その結果、彼とその両親がノルウエーのスタバンゲルの近くにある国立農学校を紹介してくれた。これを受けて柳氏は、ハイファからイタリアのナポリに渡り、そこからなんとヒッチハイクで、スイス、フランス、ドイツ、デンマークを経由してオスロまで旅した。

柳氏は、この学校で6月から翌年2月まで研修生として学んだ。さらに聴講生としてオスロ大学で学業を続けることも考えたようだが、これ以上、北海道教育大学を休学すると除籍になることがわかり、柳氏は帰国を考える。幸いなことに、在学中は農学校から小遣い銭程度のお金は支給されたそうである。また、キブツで覚えた散髪の技術でアルバイトをして滞在のためのお金も稼ぐことができたという。キブツでの労働体験を具体的に次の目的に活かしているというのも、当時の若者のたくましい生活能力だと思う。

さらに、ノルウエーから日本に帰国するときのエピソードが想像を遥かに超えていた。

ちょうど国立農学校の近くに福岡から来ていた日本人のひよこの鑑別士がいて、日本で返す約束で帰国のための旅費を貸してくれた。ノルウエー通貨で借り、帰国後に日本円で返す、という約束だったそうだ。海外で(しかもノルウエーの田舎で)出会うことの稀な日本人同士が助け合うという側面もあったかもしれないが、お金を借りられたというのは何よりも他者から信頼された柳氏の人徳によるところが大きいだろう。

飛行機のチケットを探すためにある旅行社を訪れたところ、直行便で帰っても、帰路に各地を経由しても(同じルートを戻ることがなければ)料金は変わらないことを発見する。それであれば、再びイスラエルに寄り、キブツの人に会ってから帰ろうと考え、ノルウエーからヨーロッパ各地を経由してイスラエルに行き、そこから南回りのルートで日本に帰る切符を手配した。オスロ > ロンドン > アムステルダム > ベルン > ジュネーブ > テルアビブ > ニューデリー > バンコク > 香港 > 羽田、というような経路だったようだ。

その旅程の中で、航空会社(エルアル航空)都合でジュネーブからテルアビブ行きの便がキャンセルされ、チューリヒに戻ってテルアビブ行きの便を代わりに手配してもらうことになる。この便が1969年2月18日のエルアル航空432便の飛行機であった。

まったくの偶然だが、その便のCAの一人が1年前に同じキブツに来ていたオランダ人女性Aliza Sandeersさんだった。柳氏は、最後尾の席で彼女と話をしながらテルアビブに行こうとしていたが、機体が滑走路を走行しているところをアラブの武装勢力に銃撃されたのである(El Al Flight 432 attack)。

スイスのメディアの記事によれば、空港のランウエイ近くの駐車場にワーゲンビートルが停まっていた。午後5:30に2名のパレスチナ武装勢力(Palestinian militants)が車から飛び出し、コックピットに向けて銃を乱射、パイロットは胃を撃たれ、5週間後に死亡した。乗客のうち6名が怪我をしたと書かれている。犯人は4名だったようだ。機内では靴を脱いで床に伏せろというアナウンスがあり、その後、柳氏は脱出シュートで脱出する。なんとも凄い体験である。

幸いにして柳氏自身は怪我をすることもなく、翌日の便でテルアビブへ行くことができた。イスラエルの新聞社の取材も受けたそうだ。その後、約2カ月間イスラエルに滞在し、キブツのホストファミリーとも再会して旧交を温めた後、日本への帰路につく。

戦後生まれの日本人で、戦争とテロの両方に遭遇した人、というのも稀な存在だろう。

帰国後は大学4年生に復学し、卒業後は北海道の教員になる予定だったが、語学の勉強を続けたいという思いもあり、家族には5年間で北海道に戻るという約束で東京へ出た。東京、埼玉、千葉、神奈川の教員採用試験を受け、東京都の教員となってからは、結局、北海道へ戻ることなく東京都の小学校教員として校長職まで務めることになる。

小学校の教員という仕事をする中で、キブツ体験がどのように役に立ったか、というのも難しい話だが、少なくとも具体的な体験談は子どもたちに大いに興味を持たれたとのことである。戦争をしてはいけないんだ、というメッセージも観念論ではなく体験に基づく話として、子どもたちに良く伝わったのではないだろうか。

また、コミュニケーションの重要性も指摘された。イスラエル人は世界中から集ってくるので、中には数カ国語を話せる人もいる。様々な国・文化で生活してきた人々が一緒に暮らすことになるので、日本人のような「以心伝心」はない。ともかくも相手を理解し、自分を理解してもらうまで徹底的に話をするのがイスラエル人であり、自分の意見をあまり主張しない日本人とは最も異なる点である。

この姿勢は、日本人がもっと学ぶべき点である、と柳氏は強調された。また、21歳という若い時期に海外の人・文化に触れることはどのようなものであろうと財産になる、ということも話されていた。今、少し内向きになりがちな日本の若者たちに、もう少し海外(異文化)へ目を向けて欲しいものである。

探せば、さらにいろいろな体験をした人が見つかるかもしれない。引き続き、キブツ研修参加者の取材を続けたい。

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新井 均(あらい・ひとし)

NTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu