スーパー書評「漱石で、できている」6
トーマス・マン『選ばれし人』 文化の複数性、人類の普遍性
2020.06.13
Updated by Yoichiro Murakami on June 13, 2020, 06:32 am JST
2020.06.13
Updated by Yoichiro Murakami on June 13, 2020, 06:32 am JST
マンの作品を取り上げるのであれば、誰もが『魔の山』や彼にノーベル文学賞をもたらしたとされる大作『ブッデンブローク家の人々』、あるいは『トニオ・クレーゲル』などから始めるのが順当だろう。それらの作品に対する敬意や共感は、誰にも劣らないつもりだ。しかし、私の少年時代に、マンの名前に最初に出会った作品である標題作『選ばれし人』は、今も読後の衝撃が自分の中に残っている。その意味で、私にとっては特別な作品なのである。
今更マンについての概略的な記述など必要ないかもしれないが、彼の家系あるいは家族は、今でもドイツ語圏で語り継がれるほどの豊富な内容をもっている。ここで簡単なスケッチをしておこう。
トーマス・マン(Thomas Mann)は一八七五年生まれ、亡命先のアメリカで亡くなったのは一九五五年。裕福な家の出としては珍しく、あるいは、だからこそかもしれないが、ギムナジウム(中等教育機関)中退の学歴しか持たない。同じ作家となった兄ハインリヒ(Heinrich Mann, 一八七一~一九五〇年)もベルリン大学で聴講生となったことはあるが、大学を卒業してはいない。兄は、若い頃からリベラルで国際主義的傾向が強かったのに反して、若い頃のマンはむしろドイツ文化主義を信奉していた。第一次大戦後、ナチスの台頭に従って、この兄弟の間の齟齬は解消されていくことになる。
ハインリヒの比較的初期の作品<Professor Unrat>(一九〇五年)は、標題を直訳すれば「糞まみれ教授」くらいの意味だが、後に『嘆きの天使』として、マルレーネ・ディートリヒを迎えて映画化されている(一九三〇年制作)。
マンの著名な作品群を、時代順に並べてみると、次のようになる。
一九〇一年 <Buddenbrooks>(ブッデンブローク家の人々)
一九〇三年 <Tonio Kroeger>(トニオ・クレーゲル)
一九一二年 <Der Tod in Venedig>(ヴェニスに死す)
一九二四年 <Der Zauberberg>(魔の山)
一九三三~四四年 <Joseph und seine Brueder>(ヨゼフとその兄弟たち)
一九三九年 <Lotte in Weimar>(ワイマールのロッテ)
一九四九年 <Doktor Faustus>(ファウストゥス博士)
一九五一年 <Der Erwaehlte>(選ばれし人)
これらは、すべて翻訳がある(手っ取り早いのは新潮社版『トーマス・マン全集』だろう)。『ヨゼフとその兄弟たち』以降は、アメリカに亡命後に発表された作品である。一九二九年ノーベル文学賞を受賞するが、上に述べたように、その主たる授賞理由としては、「ブッデンブローク」が挙げられている。
「ブッデンブローク」は多彩な自分の周辺の家族を題材にした長編小説。後にマンに傾倒する作家の北杜夫は、これに範を得て『楡家の人々』を書いた。「ヴェニス」はマーラーの音楽に接したのち、マーラーの死(一九一一年)に触発された作品。「魔の山」は、妻のカートャが一時鬱病のような症状でサナトリウムで療養していた経験を踏まえた、ドイツ語でいわゆる<Bildungsroman>の代表例となったもの。
この言葉は、通常「教養小説」と訳される。ドイツ語の<Bildung>は、英語の<building>と同じで「作り上げる」ことを意味することから、確かに「教養」なのだが、一人の少年が自己形成をして成人となっていく過程を描く小説という意味である。
「ヨゼフ」は、旧約聖書のなかのヨゼフの物語を題材にしたものである。いうまでもなく『創世記』はユダヤ民族の歴史を描いたものだが、アブラハムの息子イサアクの息子がヤコブと呼ばれ、別名がイスラエルであった。したがって、ユダヤ民族の直接の祖はこのヤコブに他ならない。その息子がヨゼフであって、創世記の三五章辺りから暫くは、ヨゼフの物語となる。マンはこのヨゼフ物語を主題に、ドイツにいる時代から膨大な小説を書き始めており、一九三三年ナチスの手で住まいが荒らされた際、長女のエーリカが命の危険を顧みず、原稿を助け出したことでも有名になった。途方もない量の資料・史料を土台にした長編大作である。
彼は、一九〇五年ミュンヘン大学の数学教授でユダヤ系の人物の娘カタリーナ・プリングスハイム(Katharina Pringsheim, 一八八三~一九八〇年)(愛称カートャ)と結婚する。このカタリーナの双子の兄クラウス(Klaus Pringsheim, 一八八三~一九七二年)は来日して、音楽評論家として健筆を振るい、戦前から戦後にかけて日本のクラシック音楽界に重要な地位を占めた人物である。なお、後に述べる『選ばれし人』は兄妹の近親相姦が出発点となるが、この双子の兄妹がマンの創作意欲をかきたてたのではないか、という噂が広がったことがある。
さて、マンとカートャは六児を得るが、いずれもが何ものかになるという、特別な一家となった。長女のエーリカ(Erika, 一九〇五~一九六九年)は女優、長男クラウス(Klaus, 一九〇六~一九四九年)は父にも劣らぬ作家、続いて歴史学者ゴーロ(Golo, 一九〇九~一九九四年)、同じく作家のモーニカ(Monika, 一九一〇~一九九二年)、そしてエリーザベト(Elisabeth, 一九一八~二〇〇二年)、そして最後のミハエル(Michael, 一九一九~一九七七年)である。エリーザベトは海洋環境学で、ミハエルは音楽家として名を成している。
このような環境のなかで、マンは生涯を通じて、旺盛な創作意欲に駆られて作品を発表し続けるが、上のリストでも判るように、問題の『選ばれし人』は晩年の作である。原題は「選ぶ」という動詞<erwaehlen>の過去分詞、つまり受身形を男性名詞化したもので、「神から選ばれた男」という意味である。この小説には元ネタがある。ドイツ語圏の人なら誰もが耳にしたことのある中世の代表的詩人ハルトマン・フォン・アウエ(Hartmann von Aue, 一一六五~一二一五年。AueはOuweとも綴る)が、一一九五年頃に著したといわれる<Gregorius>という韻文作品がそれである。この書は、別名を「良き罪人」としても知られている(翻訳は郁文堂の『ハルトマン作品集』にある)。
とりあえず、プロットを追っておこう。中世ヨーロッパの小国の王が瀕死の床にある。彼には若い王子と王女がある。王の身罷った夜、若い兄妹は人倫の一線を越えてしまう。一旦味わった蜜の味は忘れ難く、二人は溺れる。当然の結果として、妹は身籠る。誰の目にも異変が明らかになって、老臣たちは、妹を修道院に預け、兄は贖罪の意味もあって、当時催されていた十字軍に参加する。妹は修道院で無事男児を産み落とす。親子は引き離され、子供は修道院で密かに育てられ、教育を受ける。兄は十字軍で戦死、宮廷に戻っていた妹が王位を継ぐことになる。
隣国の王が彼女に求婚するが、彼女は頑として受けない。隣国の王は、腕ずくでもと軍勢を駆って女王の宮廷に迫る。明日は落城という日、魚の旗幟を掲げた若い騎士が訪れ、隣国の王に一騎打ちを望む。敗れた王は、この若造をお前のベッドに引きずり込むがいい、という捨て台詞とともに退散する。救国の騎士は、女王の宮廷に入れられ、自然の成り行きで、女王の夫となる。子供たちにも恵まれ、幸福な日々が続くが、やがて破局が訪れる。
女王の夫である人物が、かつて修道院で産み落とした我が子である、という事実が暴かれる時がきたのだ。実の兄妹から生まれた男児と母親とが夫婦であり、その間に子供たちがいる、というほとんど想像を絶するような相姦関係が露わになったのである。その子供たちの立場は、図にしてでもみなければ判然としない。子供たちから見て、母親は父親の母親でもあるのだから、母であると同時に祖母でもあり、しかし父親は、自分の母親から生まれているのだから、自分たちの父であると同時に「兄」でもある・・・。そして、この繋がりのすべてが「実の」繋がり、あるいは「血」の繋がりにほかならない。
もちろん、近親相姦の物語は、すでにギリシャ神話にもあるし(例えばオイディプス)、実社会でも決して珍しいことではないかもしれない。現代でいえば、むしろDVの一つの形態として、父親が娘に対して性的な悪戯を重ねる、という痛ましい事件も跡を絶たない。それにしても、ここまで複雑な相関図は、珍しい部類に属する。
話を戻すと、この若き夫は、事態がはっきりした後、父親と同じように激しい贖罪の意識を持って旅に出て、絶海の孤島に身を潜めることになる。そして、二十年近い時間が流れた。
話しは変わって、時の教皇が没し、新たな教皇選出手続き(コンクラーベ)が必要になる。選出投票権を持つ枢機卿たちの間に、共通の夢が話題になる。何とかという絶海の孤島に次の教皇がいる、という夢である。半信半疑ながら、何人かの枢機卿たちが、教皇探しの旅に出る。多くの困難を乗り越えて、何とか彼らが辿り着いた島には、一つの例外を除いて生きものは見当たらない。その唯一の例外とは、人間の姿からは程遠い異形の生きもので、しかし、人間の言葉を話す。静かに、しかし決然と彼らにいう。「私の贖罪の静謐を脅かすのは誰か」。
こんな生きものを教皇に選んだら、異教徒たちの嘲笑を買うだけだ、と尻込みする仲間を制して、ただ一人踏みとどまる枢機卿がいた。彼の夢には、そして彼の夢だけには、薔薇の花が現れていた。彼はそれを神意の象徴と見做したのである。
その生きものを収容して、船、馬を使いながらローマへと赴く途上、普通の食事、普通の生活を重ねる間に、その生きものは少しずつ人間の姿を取り戻し、健やかな壮年の男性へと変貌していく。修道院で培った神学の素養も、確かなものであることが明らかになっていく。その後の経緯は想像がつく。教皇に選ばれた彼、グレゴリウスは、自分の前に跪く妻であり、母であり、叔母でもある人物と、わが子でもあり兄弟でもある子供たちを、教皇の権限において「赦す」と宣言する。
思春期に初めて出会ったこの物語は、文字通り極めて大きな衝撃を私に与えた。ここでは、その衝撃の一つだけを語ろうと思う。それは、断固として異形の生きものを次の教皇と信じる一人の枢機卿の姿だった。何故、彼にはそれだけの確信があり得たのだろうか。信仰の力というなら、他の枢機卿たちとその深さにおいても変りはないはずである。いや、むしろ仲間の方が合理的で、<まとも>でさえある。マンの筆にかかる唯一の手掛かりは、彼の夢にだけ現れた深紅の薔薇である。それが私には理解できなかった。この疑問は、ある時まで解かれないままに残ったのであった。
南ドイツ、ヴュルツブルクからフュッセンまでを結ぶ景観豊かな道路は、「ロマンティック街道」と呼ばれる。私が初めてこの街道筋に車を走らせたのは、半世紀近く前のことになる。そのころは、道筋のところどころに白いポールが立っていて、縦書きで「ロマンチック街道」と日本語が読めたのにはびっくりした。幾つか有名な中世都市を数珠つなぎにしたこの街道都市の中でも、「宝石」とさえ呼ばれるのがローテンブルクである(正式には<Rothenburug ob der Tauber>という)。街並みは中世の佇まいそのまま、新築やリフォームの際にも、歴史的風情を維持するために様式から建材や色付けに至るまで、市条例で厳しく規制されているという。
この町の中心を占める聖ヤコブ教会の祭壇は、祭壇芸術(技術)の粋を極めたものとして、今も観光客を惹きつけて止まないが、その作者が名工ティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider, 一四六〇~一五三一年)である。彼の作品の一つに「薔薇の冠の中のマリア」(Maria im Rosenkranz)がある。
脱線するが、彼にはバイエルンの州立美術館蔵の「天使とマグダラのマリア像」という極めて神秘的な作品がある。マグダレーナは全身羊の毛で覆われた不思議な姿で、六人の天使に取り囲まれている。文字通り「神秘」という言葉が観る者を鷲掴みにするような、稀有な作品である。
話を戻すと、「薔薇の冠」像は、今はオーストリアのチロルにある小さな町キルヒベルクの教会に蔵されているが、当時、それをローテンブルクで観た瞬間にマンの遺した伏線ともいうべき表現の意味が判ったような気がしたのである。ともかく、自分の中で澱のように沈んでいたわだかまりが、一挙に氷解したのである。真ん中に聖母子像がある。その周囲に楕円形の薔薇の(無論木彫りの)冠が取り囲み、五個のメダリオンが配されている。
カトリックでは、ロザリオが必須の聖具である。仏教における数珠に相当する。名前の通り、ラテン語の<rosarium>は「薔薇の冠」という意味であり、輪の形が「冠」に近いところから名付けられたというのが通説(異説もあるが)である。そのくらいのことは、当時の私も承知していたはずである。しかし、夢の中の薔薇と神意との結びつきを示すマンの一行について、そうしたヨーロッパ文化の基本を枢機卿の確信と結びつけて考えることが、恥ずかしながらできなかったのだ。リーメンシュナイダーの技術(芸術)は、無言のうちに、そのメッセージを伝えてくれたわけである。
このことは、宗教というものを再考させる機会にもなった。自分も曲がりなりにも、今はヨーロッパに主軸を置くキリスト教に帰依する人間の一人である。そして、信仰の形は人類普遍でなければならないと思うし、だからこそカトリシズムの一端に繋がっているのでもある(全くの蛇足だが「カトリック」の語源は、ギリシャ語の<katholikos>で「普遍的」の意味である)。そして、日本に生きる人間としても、「普遍的」な姿としてのキリスト教を受け入れてきたつもりであった。
しかし、それはある意味では傲慢な姿勢ではなかったか。およそ、我々の接するキリスト教は、要するにヨーロッパ文化の網の目をくぐった産物であった。こんな当たり前のことに成人してから気付くというのは、およそ愚かだが仕方がない。三十歳近くになって、トーマス・マンとリーメンシュナイダーのお蔭で、私は肌膚に刻まれるように、ある痛みをもって実感したのだった。
ここから先は蛇足の感もあるが、「カトリック」であることと宗教の文化依存性との間にある大きな溝は乗り越えられるのだろうか、という深刻な問題が残る。私の理解する限り、現代のカトリシズムの主流は、次のように対応している。例えば、かつてカトリックの日々(通常の信徒にとっては毎日曜日)のミサでは、定められた部分(主文と言われる)は、全世界で共通にラテン語で唱えられていた。途中で歌われる聖歌も、ヨーロッパに伝統的な節回しに定まったラテン語を乗せたものであった。したがって、世界中どこへ行ってもラテン語のその部分さえ理解していれば、共感と協同性をもって与ることができた。
しかし二十世紀後半になると、ミサではすべて、それぞれの地域の言葉を使う習慣ができた。音楽もその点で解放された。念のために付け加えれば、この改革は第二ヴァティカン公会議(一九六〇年代前半)での議論の結果発せられた「典礼憲章」に基づいている。日本では、例えばミサに使われる音楽は、作曲家・高田三郎氏の作品が採用されている。アフリカでは、ドラム缶を使った音楽が使われている場合もある。
こうした現象は、キリスト教の「土着化」と表現することも可能だろう。そしてそれは、「布教」という観点でも望ましいことかもしれない。「布教」というのは、その宗教の理念が届いていない地域に、それを届けていくことだからである。歴史上、この「布教」の悪しき形がどれほどの不正をなしたか、キリスト教の抱える最大の問題の一つであるが、ここではその点は措こう。だから土着化は、布教がいわば完成した、という喜ばしい状況ではあるまいか。
しかし、ここには実は非常に深刻な矛盾が含まれている。カトリシズムは、自らを「全人類に普遍である」と自負している。そうであれば、何も「布教」などしなくても、人間のあるところ、本来それは存在しているはずではないのか。「全人類普遍」ということと「未布教地域」があることとは、根本的な矛盾である。だとすれば、「カトリシズムの土着化」という理念もまた自己撞着の最たるものではないか。
話は飛ぶようだが「土着化」の英語は<acculturation>が最も適切だろう。異質の文化が接触する間に、双方がお互いを取り込んで変容していくことを表す言葉である。今、カトリシズムの世界では、「カトリシズムの土着化」を<acculturation>ではなく、似たような言葉だが<inculturation>という言葉を使って表現しようとしている。辞書を引くと、正当には<enculturation>であり、「社会のしきたりに適応させる」という意味である、という説明がつけられている。しかし前置語を<in>にすることで、成語としての<enculturation>との差異化を図ろうとしているようにも見える。
要するに、本来その文化のなかに(in)あったものを、改めて文化として活かす、というような意味が籠められている。文化の複数性と人類の普遍性という、古くて新しい課題を考える一つの糸口になるのではなかろうか。
参照図書:
トーマス・マン『選ばれし人』佐藤晃一訳、新潮社
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登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。