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直感を身につけたAIとの戦い、人間らしさと嘘つきとナラティブ

2022.04.21

Updated by Ryo Shimizu on April 21, 2022, 08:44 am JST

最近、タブレットで麻雀ゲームやポーカーゲームを遊ぶことが増えた。
しかし筆者は、実際の麻雀やポーカーはあまりやったことがない。

学生時代、部室の片隅で部員たちが麻雀に昂じたりするのを横目で見ながらファミコンで古いゲームを遊んだりはしていたが、麻雀は1ゲームにかかる時間拘束がいやでついぞ手を出さなかった。

ポーカーは、一度だけラスベガスでやってみたことがあるが、お金が湯水のように減っていってとても楽しむどころではなかった。

ではなぜ今、あえて麻雀やポーカーをタブレットで遊んでいるのかといえば、人間との駆け引きを手軽に楽しむネットゲームとして、程よいスピード感と緊張感で遊べるからである。

たとえば、Fortniteや荒野行動、Apexのような、いわゆる一人称視点シューティングゲーム(FPS;First Person Shooting)の場合、遊ぶこと自体が体力を使う。eスポーツと呼ばれる所以である。

それに最近は、その場で集まった人で少人数のチームを組んで遊ぶのでゲーム内でポカをすると、わざわざゲーム外のメッセンジャーで、見ず知らずの人から「下手くそ!」などと暴言を浴びせられたりして心が萎えることもしばしばである。

そして少人数のチームを組んで遊ぶパターンのゲームの場合、自分の勝手な都合で抜けたりできない。
ちょっとトイレ、とか、もう眠い、とかそういう感じで遊べないのが却ってストレスだ。

麻雀やポーカーは酒でも飲みながら楽しく人間同士の駆け引きを楽しめる。
麻雀に関しては、特に最近になってやっとルールを真面目に覚えた、くらいの初心者なので、ゲームでやるくらいがちょうどいい。
実際の牌を使った麻雀は多分一生やらないだろう。

特にポーカーの中でも、テキサス・ホールデムというルールが面白いと思った。
これは、まず参加者全員に二枚ずつ手札が配られ、チップをベットする(賭ける)。

ゲーム初期のチップは全員同じ数というのが競技ポーカーの基本ルールなので、全員同じチップの数から初めて、どこで大きく賭けてどこで引くかという駆け引きが大事になる。

次に、場に一枚ずつカードがでていき、手札の二枚のどちらかあるいは両方と、場に出た5枚のカードの組み合わせで一番いい手役の人が勝って賭け金を総取りするというゲームだ。

そう聞くと、運の要素が大きいゲームだと思うかもしれないが、実際にはそうではなく、「駆け引き」の要素が半分くらいあるゲームである。
たとえば、手札にエースが二枚あれば、場のカードがどんなものであったとしても、最低でも「エースのワンペア」という役があるから強気でいける。

ところが、当たり前だが二枚の手札でワンペアが成立している状況の方が珍しいので、多くの場合は役なし(ハイカードと呼ばれる)で勝負することになる。

下手をすると、最後まで降りずに参加したプレイヤーが、実はワンペアすら成立しないまま高額の賭け金を出している場合もある。

かといって、最初から最強の手であるエースのワンペアが揃った状態で強気にベットとしようとすると、他のプレイヤーに警戒されて賭け金が積み上がらず、結局損をしてしまう。

ということは、たとえば戦略として、ゲームの序盤ではわざとダメダメな手でハッタリ(ブラフ、と呼ばれる)をかまして高額をベットしてわざと負けて他のプレイヤーを油断させ、「こいつはどんな時でも高額をかけてくるやつだ」と他のプレイヤーに思わせてから、二回目以降はわざと弱気になったふりをしてフォールド(勝負から降りること)を繰り返し、最強の手が入ってきた時にまた少しずつベットを積んでいく、みたいな駆け引きが生まれる。

または、ダメダメな手しか手元にないときに、相手がやる気を無くすほどの高額をベットし、相手にオールイン(全部のチップを賭ける)を迫って競り勝つという一発逆転の方法もある。

このやり方で勝つのは、最初から手元にエースのワンペアがあるよりも喜びが大きい。
つまり、運よりも相手に与えるプレッシャーという駆け引きだけで勝つわけだ。

これは明らかに相手が人間であるから成立する面白さ、勝ち方である。

ところが数年前から、ポーカーや麻雀といったゲームを攻略するAIが登場し始めた。

DeepStackは、2016年に二人用のテキサス・ホールデムのノーリミットゲームで人間のプロを打ち負かすことが確認された。そのもう少し簡単な実装についてはDeepStack Leducオープンソース化されている。

DeepStackは、ランダムに作られたポーカーの状況(手札の状況や賭け金の状況)から最善な手を学習し、確率論的に手の選択を最大化する。いわば、直感力を磨いてゲームに勝つAIである。

こうすると、確かに強苦なるだろうが、実はポーカーというゲームの面白さは半減してしまう。

人間相手のポーカーだと、たとえネットの向こうの顔が見えない相手であったとしても、「この人は強気でせめてくるタイプ」だとか、「この人はすぐオールインするタイプ」だとかの個性があって、そこを読み切るのが面白さにつながっている。そして、その個性というのはゲームの外の世界で培われたものだというのが大きなポイントだと思う。

たとえば、いつも弱気な攻め方をしているプレイヤーが、ある時突然、強気に転じたりするときに、そのプレイヤーに対してナラティブ(物語性、一貫性)を感じて「こいつはこんな勝負ができるのか!こういう生き方をしてきたのか!」という感動を引き起こしたりする。

もちろんそこまで感動する場面が毎回あるわけではないが、ポーカーというゲームにおいて、名前も知らないプレイヤーが持つ価値観や勝負勘といったものを抽象的にぶつけ合うのがこの手のゲームの面白さの本質なのではないだろうか。

これがなんとなく、囲碁や将棋とは違う面白さではないかと思う。

英語でvirtualとは、「本質的なもの、絶対必要なもの」という意味を持っている(仮想や偽物という意味はない)のだが、抽象化された不完全情報ゲームは、プレイヤーの生き様をvirtualに浮かび上がらせる。

実は日本でもここ10年くらいの間に流行しているアナログゲームや脱出ゲーム(代替現実ゲーム)は、それ以前に流行していた対コンピュータのゲームと違い、コミュニケーションをゲームのルールによって制限することで、よりその人の性格や人格といった本質を抽出する(virtual化する)機能があったのではないか。そして多くの人々はそこに魅力を感じて非電源系ゲームに熱中しているのではないだろうか。

たとえば、「人狼」と呼ばれるゲームでは、人間の村人の中に混じった少数の人狼を会議で当てて処刑する。
当然、人狼役のプレイヤーは、「自分は潔白である」という「嘘」をつかなければならない。

そして、疑いを向けられた無実の村人は、「自分はいかに潔白か」という話をしなければならない。人狼は嘘によって無実の村人に疑いの目が向くように会話で誘導し、村人は知恵を合わせて人狼の嘘を見抜かなければならない。

人狼は極めてナラティブなゲームで、この単純なルールで毎回ドラマがある。
なぜ人狼が面白いのかといえば、人狼役のプレイヤーが「嘘をつかなければならない」という制約が、プレイヤーをクリエイティブにするからだ。

将棋の場合、ほとんどの指し手は研究され尽くされているので、クリエイティブになれるのはごく少数の本当に歴史的に偉大なプレイヤーだけになる。

ところが人狼は、全ての瞬間で「あいつが怪しい」という嘘を人狼役のプレイヤーにつかせる。それがいかにドラマを生むかというのは、遊んだことがある人には一発で伝わるが、ない人には全く伝わらないだろう。

人狼には必ず「占い師」のプレイヤーがいて、占い師は、毎晩一人だけプレイヤーを占って、そのプレイヤーの潔白を証明することができる。
占い師はゲーム進行の道標となるので占い師のプレイヤーが誰か、その人はいつ自分を占い師であると明かすか、というのがゲーム序盤のきーぽいんとになる。

たとえば、自己紹介で「私は占い師です」と名乗るプレイヤーは、本物かどうか誰にもわからない。

他にも占い師を名乗る人が現れるかもしれない。
二人占い師が現れたら、どちらかが必ず嘘つきなので、どちらが嘘つきなのかを他のプレイヤーは見抜かなくてはならない。

もしも本当に占い師なのであれば、その日の夜に人狼に殺されてしまうかもしれない。
もちろん、占い師を守ることができる狩人というプレイヤーもいて、狩人は夜中に一人だけプレイヤーを守ることができる。
占い師を本物と信じれば、そのプレイヤーを守ればいいが、もしもそれが偽物だったら、自分が殺されてしまう確率が高まる。

人狼のゲームプレイを人工知能にやらせる、人狼知能という研究分野もあるらしい。

ただ、人狼知能にもポーカーAIと同じ問題があると思っていて、ただ「強い」だけの人狼知能とのプレイは、遊んでも観戦してもあまり面白くないのではないかと思う。

僕の大学では、麻雀は「人間関係破壊器」と呼ばれていた。
実際、学友が麻雀が起点で仲が悪くなるケースというのが少なくなくて、それも僕を麻雀から遠ざけた遠因の一つではある。

なぜ人間関係を破壊するかといえば、結局、麻雀では誰かと共闘するとかということが基本的にはない(漫画の世界にはあるが)ので、全員が利己的な判断を繰り返した結果、「お前はそんなに性格が悪いのか」というところを発見し合うからだろう。

それに比べると、人狼は、たとえば問答の中でこんなことがあり得る

A子「私は占い師」
B男「え、占い師は俺なんだけど」
C子「どっちが本物の占い師なの?」
A子「私ですが」
B男「俺だよ」
D太「うーん、僕はA子ちゃんを信じたいかな」
A子「D太くん・・・(きゅん)」
C子「D太はA子に甘いからなあ」

みたいな会話があり得る(よくある)。
しかし、これはD太がA子の気を引きたいという、ゲームのルールの外のことを考えているから発生するナラティブである。
実際、こんなことになることはよくある。

A子「(ごめんね、私人狼なの。でも、D太君は殺さずにこのままピエロとして踊り続けてもらうわ)」

みたいな思惑があって、この日に人狼の餌食になるのは無辜の民になるだろう。
D太はゲーム外の世界のことを考えて、A子を信じることにする。

でも、いずれA子はD太を餌食にする日が必ずやってくる。

B男「A子、いい加減認めろよ。お前が人狼だろ」
D太「B男、根拠のない言いがかりはやめろ」
A子「(根拠あるんだけどなあ・・・)B男、なぜそう思うのか説明して」
B男「昨日の夜、お前を占った。結果は人狼だった。これ以上の証拠があるか?」
C子「ええっ!そうだったの!?」
D太「いや、どうだろう。B男が人狼なら、同じことを言うぜ。A子、お前の占いの結果は?」
A子「(まあ私以外全員村人だから占うまでもないんだけど)昨日、一昨日とC子とD太を占った。あなたたちは村人よ」
C子「A子の言うことは正しい。やっばりB男が怪しいわ!」
D太「吊るせ!B男を吊るせ」

投票の結果、B男は村人によって処刑された。

このゲームを体験したD太とC子は、ゲーム終了後にA子が人狼であり、村人チームが敗北したことを知らされる。
その時、D太とC子はどう考えるだろうか。

A子の人間性に、明らかにそれまで知らなかった一ページ、勝利のためなら自分たちをも欺くという恐ろしさ。当たり前のことを言って最後に生き残った村人を安心させるという狡猾さを感じるだろう。それまでよく知っていた単なる友達の別の側面を知ることになるのだ。

そうした人間性を浮き彫りにするのがこの手の「嘘をつかせるゲーム」の抗い難い魅力だと思う。

人狼は人狼でプレイするのにクリエイティビティが必要になって疲れるので、そうするとポーカーや麻雀はよくできてるなあと思うわけだ。
特にすごいのは、ネットで見知らぬ人とアドホックに出会ってアドホックに別れるという遊び方において、これほど向いたゲームもないのである。

これは麻雀にしろポーカーにしろ、長い年月をかけて世界中の酒場で生き残ってきた、「見知らぬ人とコミュニケーションを取るためのゲーム」であるという共通点がある。

これはAIプレイヤーでは提供不可能な価値である。
そもそもAIなどいなくても人間が好き好んで集まって遊ぶものをわざわざAI化する意味はない。
ロボット相撲があっても、大相撲がなくならないのと同じだ。

つまり、「強い」だけではないゲームの魅力、それを遊ぶプレイヤーの魅力、プレイヤーのナラティブといったところが、実はAIと人間が共生していく大きなポイントになるのではないかと思うのだ。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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