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一本道を歩いた覚えはない〜 私の研究歴を、経路積分で読み直す 〜/入來篤史(帝京大学・理化学研究所)

© Shigeru Takeda, Courtesy of Schrodingers.jp

一本道を歩いた覚えはない〜 私の研究歴を、経路積分で読み直す 〜/入來篤史(帝京大学・理化学研究所)

September 10, 2026

入來篤史/帝京大学・理研 atsushi_iriki

1986年東京医科歯科大学大学院修了。同学歯学部生理学教室助手、ロックフェラー大学助手、東邦大学医学部生理学教室助手、講師、助教授、東京医科歯科大学大学院教授を経て、2004年より理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダー、2018年同研究所生命機能科学研究センターチームリーダー、2023年同研究所本部 未来戦略室上級研究員。著書に『Homo faber道具を使うサル』(医学書院)、『言語と思考を生む脳』(東京大学出版会)、『脳科学の教科書』(岩波ジュニア新書)など。現在、帝京大学 先端総合研究機構 AI活用部門 特任教授/理化学研究所 数理創造研究センター 量子数理科学チーム 客員研究員。

履歴書は、小さな「本紀」である

研究者の経歴は、年表にすると妙にまっすぐです。何年にどこへ移り、何を研究し、どんな論文を書いたか。出来事を年月順に並べると、あたかも最初から行き先を知っていた人が、予定された駅を順番に通過してきたように見えます。
古代中国に、この「まっすぐさ」が取りこぼすものを知っていた天才がいます。司馬遷です。『史記』は、帝王の年月だけを歴史の背骨に置くそれまでの「編年体」に飽き足らず、本紀・表・書・世家・列伝という五つの形式を組み合わせ、後世の正史の型となる「紀伝体」を確立しました。

司馬遷のすごさは、時間を捨てたことではありません。時間だけに、歴史を独占させなかったことです。同じ戦いや失脚が、帝王の本紀では国家の事件として、将軍や策士の列伝では一人の決断として、別の姿で現れます。記述は必ずしも一つに収束せず、ときには少し食い違う。けれど、その視差の中から、単線の年代記にはない歴史の手触りが立ち上がります。年表は「いつ何が起きたか」を教え、紀伝体は「それは誰にとって、どんな出来事だったか」を返してくれるのです。
履歴書は、言ってみれば、その人についての小さな「本紀」です。日付と肩書は正確でも、迷い、脇道、他者との出会いまでは書けません。古典力学の粒子のように、位置を一つずつ結んで軌道を描きます。もちろん、実際の研究はそんなに行儀よく進みません。少なくとも私は、一本道を歩いた覚えがありません。

図1は、私の研究の来歴を一枚に押し込んだものです。1978年から現在までの所属、研究方法、動物種、研究対象、主題が、五十年近い時間軸に沿って並びます。けれども、中央を走る矢印は素直に下へ降りません。横へ逸れ、別の列へ飛び、戻り、合流する。下端には、少々気恥ずかしいほど大きく「Grand Theory」と書いてあります。日本語で「大理論」と書くより、英語の方がわずかに照れが少ないからです。図の中でくらいは、大風呂敷を広げてもよいでしょう。
『史記』に比べれば笑ってしまうほど小さいものですが、この図は私なりの、一枚ものの紀伝体です。完成した理論の見取図というより、一つの問いに何十年も連れ回されてきた、その足跡を描いています。

図1: 私の研究の来歴を「一本の年表」ではなく、複数の経路の交差として示した図。右端に年代と所属・動物種、左側に方法と研究対象が、それぞれ拡大展開する様子、中央に研究テーマが収束してきた様子を配置した。矢印は、問いが別の方法・対象・分野へ移り、再び合流してきた過程を表す。いわば、一枚ものの「紀伝体」である。

言語を知りたくて、口へ向かった

問いの芯は、幼少の頃から変わっていません。「人とは何か」「自分とは何か」。その種が播かれたのは、1960年代半ば、父の留学に伴って暮らしたニューヨークだったように思います。当時のアメリカは、スプートニク・ショックを梃子に科学教育と宇宙開発へ力を注ぎ、「科学で未来を切り開ける」という自信と気概に満ちていました。子どもの目にも、科学は教科の一つというより、未知の世界へ向かう社会全体の身振りに見えました。

同時に私は、日本から来た子どもとして、日米の違い、ひいては東西の歴史や文化の違いを、否応なく意識することになりました。同じ自分でも、言葉や習慣が変われば、周囲からの見え方も、自分から世界を見る角度も変わる。自分を内側から生きながら、もう一人の自分が少し離れた場所から眺めている。後に「自己」や「意識」を研究することになる、その最初の芽だったのかもしれません。帰国後、科学と並んで歴史に惹かれ、やがて両者をつなぐ鍵として言語が浮かびました。

ところが1970年代末、言語や心は、自然科学が正面玄関から入れる対象ではありませんでした。ならば、言葉の出口である「口」から入ってみよう。そう考えて歯学部へ進みました。最短距離を諦めたというより、正面玄関が閉まっていたので通用口を探した、と言う方が近いでしょう。口は、感覚器であると同時に運動器です。最初に調べた歯の痛みと鍼鎮痛からは「感じる」側を、次に取り組んだ咀嚼のリズムをつくる脳幹の仕組みからは「動かす」側を学びました。そして、定型的な吸啜から、経験によって巧みになる咀嚼へ移る生後発達を追うと、顎口腔運動を担う大脳皮質運動野の神経回路が組み替わることが分かりました。感覚と運動は別々の線ではなく、学習によって結び直される一つの回路だったのです。

図の上をたどれば、この時期の矢印は、口腔感覚から顎運動へ、脳幹から大脳皮質へ、そして感覚運動統合へと、階段を上るように進みます。口を調べていたはずが、いつの間にか「学ぶ脳」の舞台に着いていました。そこで長じて再びニューヨークに渡り、ロックフェラー大学で運動皮質の長期増強、すなわち学習に伴って神経結合が強まる仕組みを調べました。その結果、運動学習には体性感覚野から戻ってくる情報が欠かせないことが見えてきた。ならば次は、その送り手を調べなければなりません。帰国後、サルの体性感覚皮質へ向かったのは、そういう次第です。

体性感覚野の階層を一段ずつ上がってゆくと、高次の領域では、触れたという情報に、見えたという情報が重なり始めました。そこはもう、単なる「触覚の地図」ではありません。身体からの情報と視覚情報を統合し、「自分の身体」と「その周囲」の像をつくる頭頂葉の世界でした。問いが変わるたびに専門を替えたというより、問いに促されて、脳の中を下流から上流へ歩いていったのです。

熊手に手を引かれる

それなら、サルに道具を使わせたら、その身体像はどうなるでしょう。当時、ニホンザルに実験室で道具使用を学ばせるのは不可能だと考えられていました。それでも熊手を使う課題を工夫すると、サルは手の届かない餌を引き寄せるようになりました。そして前回お話しした通り、頭頂葉に表現された身体の周囲の空間は、熊手の先まで伸びました。この結果を発表したとき、歓迎の拍手より先に、反発と懐疑が集まりました。じつは、これは初めてではありません。運動野で長期増強を見つけたときも、当時それは海馬や生後発達初期の視覚野に限られる特殊な現象だと考えられており、ずいぶん疑いの目で見られました。さらに後年、道具使用の学習に伴って皮質の表現だけでなく構造まで拡張することを示したときも、似た風が吹きました。

ところが十年余りたつと、いずれも学会の常識になり、その前提の上で次の研究が進み始めました。科学の常識は、論文が出た日に一斉に入れ替わるわけではありません。はじめは異物として弾かれ、追試や別の事例が少しずつ積もり、ある朝ふと見ると、境界線の方が動いている。三度も似た経験をすると、懐疑は不快な向かい風であると同時に、新しい経路が本当に道になり得るかを試す風洞実験のようにも思えてきます。

私はサルに熊手を使わせたつもりでしたが、振り返れば、熊手の方が私を使って、次の研究へ手繰り寄せたのかもしれません。道具は手を長くするだけではなく、使う者の脳を変え、世界の区切り方を変えます。さらに、特定の道具に対応した発声をサルに学ばせる研究から、象徴、コミュニケーション、言語へと道が開きました。口から出発して脳へ入り、道具を経て、再び言語へ戻ってきたのです。ただし、同じ地点への帰還ではありません。円ではなく、螺旋を一段上がっていました。

1990年代、科学技術振興機構の初期の「さきがけ」研究に掲げた題目は「心の内を計測する」でした。今見ると、若さに任せた大胆な看板にも見えます。けれど、歯の痛みも、身体像も、道具使用も、外から直接は見えない〈私〉の内側を、自然科学の言葉でどこまで捉えられるかという試みでした。ニューヨークで芽生えた、内側にいながら外から自分を見る視線が、ここでようやく実験の形を取り始めたとも言えます。

脳の外へ出たら、文明が待っていた

道具使用の研究が教えたのは、脳だけを見ていても脳は分からない、という少し逆説的な事実でした。人は環境を変え、変えられた環境が脳を変え、変わった脳が新しい認知を生み、その認知がまた環境をつくり替えます。私はこの循環を、環境・脳神経・認知の「三元ニッチ構築」と呼ぶようになりました。こうして問いの尺度は、一個体の学習から生後発達へ、進化へ、人類史へ、文明へと広がりました。図の中でも、研究対象は脳幹、大脳一次皮質、大脳連合野を経て、「多臓器円環」「環境円環」へ抜けてゆきます。分子遺伝学、脳機能画像、心理学だけでなく、考古学、人類学、哲学も必要になりました。これは要素還元を捨てたということではありません。ニューロンを一個ずつ見ることで得た精度を、もう一度、全体の円環へ持ち帰ろうとしたのです。

この頃から、私の関心には「潜在可能性」という言葉が居座り始めました。サルは、自然の中で熊手を使っていませんでした。しかし、適切な環境が与えられれば使うことができました。「できない」のではなく、「できるけれど、まだやっていない」。進化も文化も、現に現れた能力だけでなく、発現しなかった可能性を抱えて進むのではないでしょうか。

ホモ・サピエンスの脳がほぼ現在の形になってから、象徴的な人工物が一気に現れるまでには長い時間差があります。さらに氷河期の後、離れた地域で複数の文明が相前後して立ち上がりました。現在だけを見て原因を一本に絞るより、潜在していた多くの経路が、環境や社会との出会いによって強め合ったと考える方が、景色はよく見えます。この景色を、考古学と人類学の膨大な事例から描き直したのが、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』でした。人類は、平等な小集団から農耕、都市、国家、階層社会へと一方向に進んだのではない。過去の人々は、季節によって政治の形を替え、ときには農耕を始めてはやめ、都市をつくりながら権力の集中を拒むなど、社会の組み合わせを繰り返し試していた。同書は、正史の陰に消えた多数の経路を、鮮やかに呼び戻します。

ただ、これほど多彩な経路が、どのように共存し、分岐し、再び結びつき、そのうちの一部が現実として前景化するのか。その一段上の「文法」は、まだ十分には明示されていないように、私には思えます。これは同書の弱点というより、次の問いへ開かれた継ぎ目です。その空白に、経路積分という別の山道から近づいてみたいのです。

量子論は、最後に貼った看板ではない

ここで、前回の「経路積分」につながります。

単に最小作用の法則に従う変分原理なら、話は「数ある候補の中から、最も効率のよい一本を選ぶ」ことで終わります。しかし、経路積分の肝は、一本をあらかじめ選ばないことにあります。取り得るさまざまな経路は、それぞれ位相をもった可能性として重なり、互いに強め合ったり、打ち消し合ったりする。その干渉を経た後に、一つの結果が観測される。少し乱暴に言えば、多数の潜在経路から一つの現実が立ち現れるところに、波束の収縮にも通じる量子論的な劇があります。

もちろん、私の研究歴が物理的な意味で量子現象だった、と言いたいわけではありません。ここで借りたいのは、物理機構ではなく記述の文法です。研究の分岐では、選ばなかった道も完全には消えません。言語への関心は、歯の痛みを研究している間も、熊手を持ったサルを見ている間も、細い経路として残っていました。人類進化や文明を考え始めたとき、それらは思いがけない場所で再び合流した。後から見ると一本に見えるのは、初めから他の道がなかったからではなく、多くの可能性が干渉し、この筋が濃く立ち現れたからです。

近年、私が非可換確率論、汎量子論、量子計算へ進んだのも、脳科学から突然「量子」へ飛び移ったということではありません。考える順序によって答えが変わり、観察の仕方によって状態が変わり、可能性同士が独立な足し算にならない。そうした人間の認知や社会の構造を、比喩のままにせず、数学的に記述し、検証する枠組みが必要になったのです。2025年、所属も帝京大学のAI研究と理研の量子数理へ移りました。図の矢印が最後に「経路積分」「汎量子論」へ伸びるのは、流行の看板を後から貼ったためではなく、長く潜在していた道が、ようやく前景に出てきたからです。

成功談は、たいてい後知恵でできている

以前、高校生へのメッセージとして、「他人の成功談は、面白いし勇気が湧くが、鵜呑みにしてはいけない」と話したことがあります。成功には、かなり狭い住所があります。その人が、その時代に、その環境で行ったから成功した。同じ手順だけを別の人、別の時代、別の場所へ移植しても、同じ花が咲くとは限りません。成功談の普遍性は、案外乏しいのです。
むしろ結実しなかった失敗の方に、広く持ち運べる知恵があるのかもしれません。ところが失敗は回想録から編集で落とされやすく、本人も失敗だったことに気づかないまま次へ進んでいる。ですから、この自己回想も鵜呑みにはしないでいただきたいと思います。私は初めから最適な経路を知っていたわけではありません。その時々にできることの中から、ほんとうに知りたいことに少しでも近い一歩を選んだだけです。行き止まりもありましたし、周囲の人に別の道を開いてもらったことも多い。首尾一貫していたのは、答えではなく問いの方でした。

ただし、一本道でなかったことは、一つ一つの仕事が未完成でよかったという意味ではありません。歯の痛みなら歯の痛みとして、運動野なら運動野として、熊手なら熊手として、その時点の問いに最大限の精度で答え、できるだけ早く成果の形にする。それぞれの足場が自立していなければ、次の跳躍はできなかったでしょう。遠回りには、各駅でいったん仕事を完結させてから乗り換える、という案外せっかちな面もあるのです。今いる場所から過去を塗り直せば、歯の痛みも熊手も、すべて量子論へ至る伏線だったことにできます。美しい筋書きですが、少々できすぎた「正史」です。司馬遷的なリアルさを残すなら、別々に走っていた経路が後になって出会ったのであって、最初から一つの結末に奉仕していたことにはできません。

図の下端にある「Grand Theory」は、到着済みの駅名でも、異説を消して完成させる最後の正史でもありません。異なる方法、動物、分野、語り方が、一つに潰されずに共存し、それでも互いを照らし合える、そのための原理につけた仮の名です。ひょっとすると大理論とは、世界を一本の物語にすることではなく、複数の物語を複数のまま扱える文法なのかもしれません。そこへ本当に辿り着くかどうかは分かりません。けれど、行き先が完全には決まっていないからこそ、研究は面白いのです。

一本道を歩かなかったからこそ、私は何度も、同じ問いへ戻ってくることができました。図の外側に残された細い経路は、きっともう、次の話を始めています。たとえば文明が、一度だけではなく、いくつもの異なる仕方で「黎明」を迎え得たという話へ。
(入來篤史/帝京大学・理研)

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