エリートと教養12 現代日本語考 6 日本語を歌う
2020.11.26
Updated by Yoichiro Murakami on November 26, 2020, 14:06 pm JST
2020.11.26
Updated by Yoichiro Murakami on November 26, 2020, 14:06 pm JST
前回(日本語を読む)、最後は七・五の詩とそれに重なる歌の話になりました。私の過去の中で、もう一つの七・五の世界は、旧制高校の寮歌です。無論、私は新制度の人間ですが、父親は、四、五歳の私に、一高の寮歌を歌わせようとしました。中でも最も有名なのは『嗚呼玉杯に花うけて』です。後に佐藤紅緑が同名の小説を書いたほど、広く知られた歌になりました。因みに紅緑は、詩人サトウ・ハチローの父であり、また小説家佐藤愛子の父でもあります。
話を戻すと、寮歌というのは、寮生が作詞し、寮生が作曲するのが習慣です。この歌に関して、後に著作権絡みの裁判事件が起こったのも、その習慣と関係していたため、とも考えられます。原詩は、見事な五・七調で書かれた、青年の客気横溢というか丸出しというか、の詩文です。別項でも書きましたが、この曲(ばかりではありませんが)は、原作者は長調で書いたそうですが、一般には短調で歌うことが好まれます。私も歌うときは短調にしていました。
ああ玉杯に花うけて 緑酒に月の影宿し
治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て
向丘にそそりたつ 五寮の健児意気高し
「向丘」は、今は遊園地のある川崎市の地名の方が有名かもしれませんが、文京区本郷の一角の名前で、そこにかつての第一高等学校の寮がありました。寮は五棟あったので、「五寮の健児」という表現になっています。全部で五節からなりますが、私が最も愛するのは次の節です。
花咲き花はうつろひて 露おき露が干るがごと
星霜移り人は去り 梶とる船師は変れども
我乗る船は永久に 理想の自治に進むなり
もう一つ、父が好んで歌い、私にも教え込んだのは『春爛漫の花の色』でした。作詞は『嗚呼玉杯』と同じ人物です。こちらが一九〇一年の、前者が一九〇二年の作ですから、同一人物が二年続けて入選していたことになります。こちらは、あまり知られていないかもしれないので、全文を掲げておきましょう。
春爛漫の花の色 紫匂ふ雲間より
紅深き朝日影 長閑けき光さしそへば
鳥は囀り蝶は舞ひ 散り来る花も光あり
秋玲瓏の夕紅葉 山の端近くかぎろへる
血潮の色の夕日影 岡の紅葉にうつろへば
錦栄えある心地して 入相の鐘暮れてゆく
それ濁流に魚住まず 秀麗の地に健児あり
勤倹尚武の旗の色 自治共同の笛の音
白雲なびく向陵に 籠るも久し十余年
港を遠み夜は冥く さかまく怒涛の大洋に
木の葉の如く漂へる 舵の緒絶えたる小舟すら
遥かに見ゆる明星の 光に行く手を定むなり
自治の光は常闇の 国を照らせる北斗星
大和島根の人々の 心の梶を定むなり
若夫れ自治のあらずんば この国民を如何にせむ
この最後の節の「振り被り」方も、およそ大仰ではありますが、国の将来を担わんとする若者の心意気として、当時は許されたのでしょう。対句を使ったり、異質のものを並列させたり、漢詩の定型的レトリックが、ここでも主役を占めています。「自治」という言葉が、『嗚呼玉杯』にも登場しますが、官立の学校にいて「自治」を目指すというのも、当時の意識の高い青年の「志」の一つだったと思われます。
寮歌で、もう一つ世間で有名なのは、「都ぞ弥生の」という歌い出しで知られる、現代風にいえば北海道大学の寮歌です。当時は、東北帝国大学農科大学(札幌農学校から改称)の寮歌として成立したものです。上に紹介した寮歌が、すべて七・五の定型詩でしたが、これは少し趣が違っています。実は、北大の寮歌は歌う前に、作詞者、作曲者の名前の紹介のついた、恐ろしく美文調の「前口上」が吟じられるのを習慣としてきたとのことですが、私は当事者ではないので、そのことは伝聞調で記すほかはありません。
都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴のむしろ
尽きせぬ奢りに濃き紅や その春暮れては移ろふ色の
夢もこそ一時青き繁みに 燃えなむわが胸想ひを載せて
星影さやかに光れる北を 人の世の 清き国ぞと憧れぬ
次の節の冒頭は、本当に北海道らしい、素晴らしい詩文だと思います。
豊かに実れる石狩の野に 雁はるばる沈みて行けば
羊群声無く牧舎に帰り 手稲の嶺黄昏れこめぬ
ところで、この詩文は、これまでの歌とは、かなり違った形をしています。基本は八・七という珍しい音律です。最後の二行は、八・七の後、五・七・五の俳句の形が加えられているのです。それだけに、作曲にも工夫が要ることだったと思います。
面白いのは、<八>という音節です。能の詞章を謡曲にすると、その譜割の基本は八拍子になります。囃子方は、八音節を土台に組み立てられています。しかし、詞章の方は、無論定型を崩す場面はいくらでもありますが、やはり基本は七・五か五・七です。例えば、有名な『羽衣』の冒頭は、
風早の 三保の浦曲を 漕ぐ船の 浦人騒ぐ 浪路かな
となって五・七で処理されますし、他方、『紅葉狩』の冒頭は、
時雨を急ぐ紅葉狩 時雨を急ぐ紅葉狩 深き山路を訪ねむ
であり、こちらは七・五を重ねていきます。どちらにせよ、八拍子には辻褄が合いません。そして、そのことが謡曲の面白さの根拠でもあります。
あまり好ましい話題ではないのですが、戦時中に流行った戦時歌謡も、多くが七・五です。『加藤隼戦闘隊』は、
エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と 胸に描きし 赤鷲の
印はわれらの 戦闘機
となります。後にも触れる『戦友』は、
ここは御国を 何百里 離れて遠き 満州の
赤い夕陽に 照らされて 友は野末の 石の下
こうしてみると、日本人の歌への感覚が、七・五を中心に動いてきたことが、明らかになるのではないでしょうか。
寮歌だの軍歌だのを例にとりましたが、童謡の世界でも、七・五は幅を利かせています。私の嫌いな歌ですが、
みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道
遥かに見える 青い海 お船が遠く 霞んでる
念のために付け加えておきますが、この歌を私が嫌うのは、歌詞や曲想というよりは、この歌を流行らせた少女歌手の唄い方が我慢できなかったからです。まあ、歌詞も、内容は何もなく、単に子供心に阿るようなところが目立って、好きではありませんが。つまり、子供にはこの程度のことが適当だろう、という下心が透けて見えるように思えてしまうのです。この種の童謡なるもの、例えば『お猿のかごや』、『かわいい魚屋さん』、『森の小人』などに共通する点のように、子供心にも、私には思えてしまったのでした。
学校唱歌で好きだったものの一つ、例えば『浜辺の歌』と比べてみれば、その点は明らかでしょう。
あした浜辺を さまよへば 昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ 寄する波も 貝の色も
ゆふべ浜辺を もとほれば 昔の人ぞ しのばるる
寄する波よ 返す波よ 月の色も 星の影も
この詩は、一句、二句は七・五ですが、三句、四句は六・六という変形で、曲は八分の六という前提を持つ二拍子ですが、八分の六は、三拍子系の感覚を与えます。日本の歌には、全般に三拍子系が稀である、というのが定説ですが、その意味ではこのポピュラーな曲の特異性が読み取れるかもしれません。作曲者の成田為三は、この詩が、「あした;はまべ」・・・と続いて、「かぜの;おとよ」、「くもの;さまよ」と三字の区切りが印象的なところから、三拍子系を選んだのでは、という推測も成り立ちます。
もっと幼い歌でも、
海は広いな 大きいな 月は昇るし 日が沈む
この壮大なパースペクティヴは、子供にとって、とても大切だと思いますが、ここでも七・五が守られています。
もう一つ、日本の言葉と歌との関わりで、忘れられないことがあります。子供の頃から歌い親しんでいた歌曲、『故郷の空』は、皆さまも良くご存じでしょう。
夕空晴れて 秋風吹き
月影落ちて 鈴虫鳴く
思へば遠し 故郷の空
ああ我が父母 如何におはす
澄み行く水に 秋萩たれ
玉なす露は 芒に満つ
思へば似たり 故郷の野辺
ああ我が兄弟 誰と遊ぶ
多少感傷過剰なところもあるかもしれませんが、七・六と、七・五の変形ですが、大和田建樹の手になる美しい歌詞で、スコットランドという異国の民謡の上に歌われるとしても、メロディも優しく、歌詞とも似合っているように思われました。私の愛唱歌の一つでした。
話は変わります。戦後間もなく、ブラジル出身のダ・シルバという三段跳びの選手が、田島直人の持っていた16.00メートルという当時の世界記録を破って、大きな話題になったことがあります。確か、日本に招かれた彼をメディアがスターのように扱った、という記憶があります。そのとき、ラジオでのインタヴューで、何故か経緯は全く覚えていないのですが、『故郷の空』を歌ったのです。いや、そこが問題でした。これも記憶違いかもしれませんが、彼は英語で歌ったのですが、それは、『故郷の空』として私たちが知っている歌とは、およそ違う歌でした。
If a body meets a body, coming through the rye.
で始まるこの歌は、スキップするような軽いリズムに乗った、軽快な、しかも、かなり速いテンポの歌でした。少なくとも、故郷を遠く離れて父母・兄弟を想うような気色は、およそ感じられないのでした。
そうだったのか、スコットランド民謡といわれるものと『故郷の空』とは別物だ、とその時に知ったのでした。この歌は、戦後かなり経ってから、いわば直訳版(なかにし礼の作詞と聞いていますが、後にドリフターズが歌ったときは、更に変わっていたようです)が歌われるようになりました。それは、記憶によれば、
誰かさんと 誰かさんが 麦畑で
こっそりキスした いいじゃないか
と、ほぼ原曲の面影を映したものになっていました。この曲は、「ところ変われば、品変わる」という俚諺の真実を、私に強く印象付けた例として、未だに忘れられません。この辺りの記述は完全に幼い頃の記憶だけに依存していますので、間違いがあるかもしれません。その点はお許しを願っておきます。
考えてみると、昭和の戦前期、子供たちが習った歌は、歌詞も日本語として美しいものが少なくありませんでした。大和田建樹の作詞になる『青葉の笛』は、五・七の呪縛からは解放された詩ですが、田村虎蔵の曲も素晴らしく、この種の歌の中で私がもっとも愛するものの一つです。詩は次のように歌われます。
一の谷の 戦さ破れ 討たれし平家の 公達哀れ
暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
更くる夜半に 門をたたき 我が師に託せし 言の葉哀れ
いまはの際まで 持ちし箙に 残れるは 「花や 今宵」のうた
この詩は、『平家物語』に準拠したテーマを扱っていますが、一節と二節は、別の物語です。
一節は、「敦盛討たれ」が主題です。一の谷の合戦で、平家の若い公達敦盛が馬を打たせて、今しも海へ乗り入れ、船に逃れようとする、東国武者の一人熊谷直実が、これを見つけて声をかける。「逃げるのですか」。呼び戻された形で敦盛は、直実のもとに。組み敷いた相手の、美々しく、自分の息子と同年ほどの若さ、気高き姿に、直実は哀れを催し、取り合えず名を訊くが、覚悟を決めた敦盛は、お前の手柄になるから早く討て、と名乗らない。直実は、逃がそうとするが、後ろから味方の梶原景時らが迫ってくるので、それもならず、心を鬼に、首をとる。そのとき、敦盛が手挟んでいた笛、昨夜、喨々と聞こえていた笛の音は、これだったのか。荒夷とされる東国の武士と違って、宮廷にも上る公家武者の、高い教養と高貴な嗜みに圧倒された直実、彼を討った自分を、つくづく無常の身と感じた直実は、後に出家することになります。
敦盛は、清盛の弟経盛の末子、「無冠の太夫」と囃された若者。祖父忠盛が後鳥羽上皇から賜った「小枝」(別名「青葉」)の笛が、父を通じて笛の名手敦盛へと渡っていたのが、この笛でした。敦盛は、須磨寺(現神戸市須磨区)に眠りますが、この笛もこの寺に伝えられているとききます。
能楽でも、歌舞伎でも、人々の涙を絞らせるこの名編。能の『敦盛』は、世阿弥の作。例によって、既に一の谷の合戦は遥か昔になり、僧形の蓬生(ワキ)つまり熊谷が、敦盛の菩提を弔うべく訪れた須磨の浦で、どこからか笛の音が聞こえ、一人の草刈男(前シテ)に出会う。中入り後、現れたのは敦盛の霊(後シテ)で、この中之舞は絶品といわれます。歌舞伎では、いわゆる『熊谷陣屋』の二段目がそれに当たります。歌舞伎では、熊谷の息、小次郎に重要な役を与え、色々と脚色がなされていますが。
『青葉の笛』の第二節は、同じ『平家物語』からの題材の一つ「忠度都落ち」と「忠度最期」とが詠み込まれています。平忠度(ただのり)は、清盛の父の六男、つまり清盛の弟の一人ですが、もともと歌人として藤原俊成の門下の逸材です。脱線すれば、彼は薩摩守に任じられており、「薩摩守忠度」という通称が通っていたところから、現代になって電車の無銭乗車を「さつまのかみ」という習慣ができました。
話を戻しましょう。平家の都落ちの後のことです。忠度は、師の俊成に自作の和歌を数多く託していましたが、俊成が『千載和歌集』を編むに当たって、忠度の歌、
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
を採択するときに、既に朝敵と化していた平家を憚って、この歌を「詠み人知らず」として掲げました。後に『新勅撰和歌集』が編まれたときには、詠み人として薩摩守忠度の名が載り、名誉は回復されるのですが。その後、一の谷で、敗戦の混乱の中、源氏の軍勢の中に紛れた際、お歯黒が眼にとまり、討たれるという哀しい結末を迎えます。そのとき、死者となった忠度の着けていた箙のなかに、「旅宿の花」と題する一首が封じられているのが見つかりました。それが次の歌です。
行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の あるじならまし
大和田の作詞は、「花や 今宵」を直接織り込みながら、この故事を見事に一曲に仕上げたことになります。『平家物語』は、江戸時代、盲目の法師たちの独占で、琵琶とともに法話のような形で、庶民に語られてきました。従って、普通の人々の基礎教養として、様々な形で心に刻まれていたでしょう。その上、能は多少近寄りがたくとも、また歌舞伎でも繰り返しその一面が伝えられてきたことを考え合わせると、明治になっても、そうした風潮は残っていたのでしょう。一般の人々が歌う曲が、このような背景を持っていることも、あまり支障なく受け入れられていたに違いありません。
もう一つ、これも子供の時代の愛唱歌の一つ『四条畷』に触れておきましょう。当時のことですから、南北朝の評価では、南朝への加担が顕著で、室町幕府の名将であった高師直は、極悪非道な逆賊のように考えられていました、この点は『太平記』の師直批判が影響しているところが大だと思いますが、これに「敢然と」立ち向かった「忠君」の象徴楠正行(正成の息)が、四条畷で、師直軍と会戦した故事を扱ったものです。詩はこれも大和田建樹、曲は、小山久之助がつけました。珍しく八節まである長いものですが、好きだった第一節、第二節、そして最後の第八節をご紹介しておきます。
吉野を出でて うち向かふ
飯盛山の 松風に
なびくは雲か 白旗か
響くは敵の 鬨の声
あな ものものし 八万騎
大将師直 いずくにか
かれの首を とらずんば
ふたたび生きて 還るまじ
今も雲居に 声するは
四条畷の ほととぎす
若木の楠の かぐはしき
ほまれや 人に語るらむ
この「あな ものものし 八万騎」というところなどは、子供心に歌っていて、ぞくっとするような感慨がありました。時代の限界もあり、南北朝という時代の歴史的評価については、戦後、かなり大きく変わりましたから、内容に疑問があるかもしれませんが、歌い継がれていって良い名曲の一つであることは間違いありません。蛇足ですが、日本一長い歌といわれる『鉄道唱歌』の一部は大和田の作詞です。
さらに蛇足を加えれば、楠公絡みの愛唱歌がもう一つありました。『桜井の訣別』です。
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕間暮れ
木の下影に 駒留めて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の 袖のへに 散るは涙か はた露か
作詞は、これも当時の名文家落合直文です。こちらは大楠公、つまり楠木正行の父、正成の物語です。奥山朝恭の作曲として知られているこの曲も、本来は長調のようですが、短調で歌う方が曲想に合っているように思います。簡単に短調に変えて歌えるのも、面白いところです。この歌は、実は極めて長いもので、本来は『楠公の歌』として三部に分かれ、十五節あります。最初の六節が「桜井の訣別」、次の二節が「敵軍襲来」、そして九節から十五節までが「湊川の奮戦」ということになっています。私が子供の時覚えたのは六節まででした。
このように、歌曲の形で、一つの長い物語を語ろうというものには、幾つも例があります。例えば先に挙げた『戦友』がそうです。「ここは御国を 何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」に始まるこの曲は、「筆のはこびは 拙いが 行燈の陰で 親たちが、読まるる心 思いやり 思わず落とす一雫」の十四節まで、真下飛泉:詩、三善和気:曲で、軍歌のジャンルでありながら、「一本のタバコも、二人で分けて服み」、「死んだら骨を頼む」とまで互いに言葉を交わすようになった、戦地での親友の戦死の経緯をその親に宛てた手紙に書き記す、という一人の兵士を描いた、悲哀に満ちた物語曲です。
士気を鼓舞するというよりは、むしろ厭戦気分を増幅しかねない、として、軍隊上層部では、度々禁止令を出したようですが、密かに、あるいは末端では大っぴらに、兵士たちに愛唱されていました。私も、途中にある「時計ばかりが こちこちと 動いているのも 情けなや」や、最後の節の言葉が好きで、全部を覚えて歌っていました。今でも、最後まで空で唱えます。
同じ戦争を歌ったものには違いありませんが、『水師営の会見』は、軍歌というよりは子供たちの遊び歌でした。「せっ せっ せ」で始まる、向かい合った子供が歌に合わせて両手を交互に相手と併せる単純な遊びにも使われました。
「旅順開城 約成りて 敵の将軍 ステッセル 乃木大将と 会見の ところはいづこ
水師営」で始まります。詩は佐々木信綱、曲は岡野貞一です。第九節「さらばと握手 ねんごろに 別れて行くや 右左 砲音絶えし 砲台に ひらめき立てり 日の御旗」で終わります。これも一種の物語歌に加えられるでしょう。
岡野貞一には、一言言及しないではいられません。私たちが、子供の歌として郷愁とともに歌い継いでいる歌の多くは、実は彼の作曲です。最も典型的なのは「兎追ひし」の『故郷(ふるさと)』でしょうか。東日本大震災以降、この歌がまるで国民歌のような扱いを受けていますが、他にも名曲が沢山あります。「菜の花畑に」の『朧月夜』や『春の小川』、『春が来た』、『夕焼け』、『紅葉(もみじ)』など、すべて岡野の曲です。今は忘れられたようになっている『児島高徳』もそうです。私はこの歌が大好きです。特に最後の二行のリフレイン
天勾践を空しうする勿れ 時に范蠡なきにしもあらず
は、特段でした。勾践は中国春秋時代の越の王、范蠡は呉との闘いで功績のあった忠臣の名です。この話も『太平記』に現れますが、南北朝問題に絡んでいます。児島高徳は南朝に忠誠を誓う武将、幕府によって隠岐に配流になった後醍醐帝の救出を図りますが、警備の余りの厳しさに、取り敢えずは断念し、その代わり庭の桜の幹を削って、この詩文(漢文)を書き残しました。天は陛下を見捨てていません、どうか力を落とさず、忠臣が現れるのをお待ちください、という励ましでありました。
こうしてみると、昔の子供たちは、唱歌を通じて、自然の美、人情の深さはもちろん、歴史や社会の出来事についても、学ぶ機会としていたことが判ります。
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