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《私》 は熊手の先まで伸びる一本道ではない世界を、どう描くか/入來篤史(帝京大学・理化学研究所)

《私》 は熊手の先まで伸びる一本道ではない世界を、どう描くか/入來篤史(帝京大学・理化学研究所)

August 27, 2026

入來篤史/帝京大学・理研 atsushi_iriki

1986年東京医科歯科大学大学院修了。同学歯学部生理学教室助手、ロックフェラー大学助手、東邦大学医学部生理学教室助手、講師、助教授、東京医科歯科大学大学院教授を経て、2004年より理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダー、2018年同研究所生命機能科学研究センターチームリーダー、2023年同研究所本部 未来戦略室上級研究員。著書に『Homo faber道具を使うサル』(医学書院)、『言語と思考を生む脳』(東京大学出版会)、『脳科学の教科書』(岩波ジュニア新書)など。現在、帝京大学 先端総合研究機構 AI活用部門 特任教授/理化学研究所 数理創造研究センター 量子数理科学チーム 客員研究員。

一本道ではない世界を、どう描くか

一本の熊手を手にしたサルが、少し離れたところにある餌を引き寄せる。私が長年続けてきた脳研究は、そんな素朴な場面から始まりました。

サルの頭頂葉には、手に触れたものだけでなく、手の近くに見えるものにも応答するニューロンがあります。いわば、身体の周囲に広がる「手の届く世界」を表す細胞です。ところが、サルが熊手を使いこなすようになると、その視覚的な応答範囲が熊手の先まで伸びてゆく。道具が、脳の中で身体の一部のように扱われ始めるのです。これは、なかなか愉快な出来事です。身体は皮膚の内側にきっちり収まっている、という私たちの常識を、一本の熊手が軽々と越えてしまう。《私》と世界の境界は、最初から引かれているのではない。何に手を伸ばし、何を使い、何と関係を結ぶかによって、そのつど描き直されるらしいのです。

「起きなかった道」も捨てない

この小さな発見は、やがて私を、ずいぶん遠くまで連れてきました。道具は身体を拡張し、拡張された身体は空間の見え方を変える。空間が変われば行動の選択肢が増え、未来の見え方も変わる。さらに、道具は記号や言語を生み、個人の脳を越えて、他者や社会、文化、文明へと働きかけてゆく。出発点はニューロンでしたが、問いはいつの間にか、「人間は、どのようにして人間になったのか」へと広がっていました。

ところが、この広がりを一本の因果の鎖だけで説明しようとすると、どうにも窮屈です。原因があり、結果があり、その結果が次の原因になる。近代科学は、この明快な形式によって大きな成功を収めました。けれども生命や脳、人間の歴史では、起きたことだけを順に並べても、なぜそれが起きたのかを十分には説明できません。実現しなかった選択肢、途中で閉じた分岐、他の出来事との出会い。そうした「起きなかった道」もまた、起きた現実の形に影響しているからです。

進化を考えても同じです。生物は、与えられた環境に一方的に適応するだけではありません。巣をつくり、火を使い、土地を耕し、自分を取り巻く環境そのものを変える。変えられた環境は、次の世代が進む道を変えます。人間なら、そこに道具、言語、制度という「人工の環境」も加わる。原因が結果を生み、その結果が原因の側をつくり直す。未来から振り返って初めて意味を持つ出来事さえあります。こうなると、因果の矢印を一本ずつ描き足すだけでは、紙面がすぐに絡まった糸で埋まってしまいます。

ここで登場するのが、量子論です。

量子力学の「経路積分」という考え方では、粒子がA地点からB地点へ一本の決まった道を通った、と最初から仮定しません。取り得る経路を計算の中に残し、それぞれが強め合ったり打ち消し合ったりする「干渉」を経て、観測される結果を導きます。重要なのは、実際には選ばれなかった経路を、早々に無価値な幻として捨てないことです。可能性は、現実になる前にも互いに働きかけている――量子論は、そんな不思議な世界の描き方を教えてくれます。

これは、単に「どの道を通ったか分からない」という話ではありません。普通の確率なら、いくつかの可能性にそれぞれ確率を割り当て、最後に足し合わせます。量子論では、可能性同士が干渉するため、全体は部分の確率の単純な足し算にはなりません。選択肢は互いに無関係な札として箱に入っているのではなく、選ばれる前から関係を結んでいる。この違いが、人間や社会の複雑さを考えるうえで、大きなヒントになるのではないかと思うのです。

「脳は量子コンピュータだ」と言いたいのではない

では、人間の脳は量子コンピュータなのでしょうか。正直に言えば、まだ分かりません。そして、この連載でいきなりそう断言するつもりもありません。「量子」という言葉は、何でも神秘的に見せる便利な香辛料になりがちです。しかし私が探りたいのは、もっと地味で、同時にもっと大胆な可能性です。量子論が物理学の中で磨き上げてきた数学的な構造を、人間の認知や行動を記述するための原理として使えないか。物理現象そのものが量子的であるという主張と、量子論に似た構造を使って現象を記述することは、きちんと分けて考えなければなりません。

たとえば、人は同じ質問にも、直前に何を考えたかによって違う答えを返します。Aを考えてからBを考えるのと、Bを考えてからAを考えるのとでは、結論が同じとは限らない。順序を入れ替えても結果が変わらない古典的な論理に対して、これは「非可換性」と呼ばれる構造に似ています。また、曖昧な考えが、質問された瞬間に一つの答えへと定まる過程は、測定によって可能性が絞られる構造と重なります。

もちろん、「似ている」で終われば比喩です。比喩を数学的なモデルにし、観察や実験で古典的な説明と比較し、どちらがよく現象を捉えるかを調べる。場合によっては量子計算機を使って検証する。うまくいかなければ、潔く退ける。そんな反証可能な研究へ進んでこそ、「量子論的」は科学の言葉になります。

可能性を、急いで一つにしない

この視点は、生成AIの時代にも面白い問いを投げかけます。AIは膨大な候補から、もっともらしい言葉や行動を一つずつ選びます。しかし、人間の知性の特徴は、最適解を素早く出すことだけでしょうか。矛盾する考えをしばらく同居させ、他者との対話によって意味を変え、いったん捨てた道へ戻る。決めずに保っていた可能性が、後になって創造性の源になることもあります。身体をもつAIが道具を使うようになれば、そのAIにとって「自分の身体」はどこまででしょう。人とAIが一緒に判断するとき、誰の問いが、どの順序で、可能性を一つの現実へと絞るのでしょう。AIを答えの自動販売機としてではなく、まだ形を持たない可能性を共に育てる相手として設計することはできるでしょうか。

ここから先には、神経科学、数学、物理学、哲学、情報科学、進化論、さらには人文・社会科学を横断する、少々風変わりな旅が待っています。ある月には、熊手や筆を手にした身体から〈自己〉の境界を考える。別の月には人類の移動の地図を眺めながら、空間と時間がどう生まれたかを考える。意識や記憶、言語や儀礼、虚構と科学、AIとの共生、社会の意思決定も、この旅の風景に入ってくるでしょう。西田幾多郎の「場所」や九鬼周造の「偶然性」も、数式とは別の山道から、同じ谷へ降りてくるかもしれません。

この連載の最初の一枚を描くなら、熊手を握る一つの手。その先には、無数の淡い経路が扇のように開き、一本だけが濃く浮かび上がっている。けれど、ほかの道も完全には消えず、余白の中でかすかに光っている。そんな絵がよいと思います。現実とは、選ばれた一本の道だけでできているのではない。まだ形にならなかった可能性も、現在を静かに支えている。その余白に残る光を、毎月一つずつ、拾いに行こうと思います。
(入來篤史/帝京大学・理研)

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